瀬川洋一郎
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| 瀬川 洋一郎 | |
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| 本名 | 村川 巖(むらかわ いわお) |
| 生年月日 | 1930年5月27日 |
| 没年月日 | 2005年7月12日(75歳没) |
| 出身地 |
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| 血液型 | O型[1] |
| 方言 | 薩摩言葉 |
| 最終学歴 | 旧制鹿児島県鹿児島高等学校第五部 |
| 芸風 | コント、喜劇 |
| 事務所 | MBCサンステージ |
| 活動時期 | 1949年 - 2005年 |
| 配偶者 | 既婚 |
瀬川 洋一郎(せがわ よういちろう、1930年〈昭和5年〉5月27日[1][2] - 2005年〈平成17年〉7月12日)は、鹿児島県を拠点に活動した日本のローカルタレント。MBCタレント第1号である。本名、村川 巖(むらかわ いわお)[3]。鹿児島県鹿児島市出身。
1978年(昭和53年)、MBC南日本放送の放送功労賞を受賞[4]。MBCからは他にも1961年(昭和36年)には編成局長賞を[2]、1970年(昭和45年)には社長賞を受賞[2]。1972年(昭和47年)には加根又[注釈 1]から感謝状を贈られる[2]。1995年(平成7年)、薩摩狂句の普及や鹿児島弁の伝承などに貢献したとして、瀬川洋一郎が代表のMBCタレントグループが鹿児島県芸術文化奨励賞を受賞した[5]。
生い立ち
1901年(明治34年)生まれの父親と1914年(大正3年)生まれの母親の間に生まれ[2]、鹿児島市東千石町[2]の照国神社の近くで育つ[1]。子供の頃の夢は船乗りであった[1]。かつては、ガンちゃんというニックネームで呼ばれていた[1]。
旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校では[2]、後にアナウンサーを経てラジオ制作を行う竹下幸良と同級生になり[6][7]、中学時代から演劇活動を行った瀬川は旧制第一鹿児島中学校から新制高校へと学制改革が行われた後の新制高校開港記念祭で、ハイエルマンの「永遠のユダヤ人」の主人公役を演じたほか、自主公演での伊藤松雄作「暁の燈台」の主役など様々な役を演じた[7]。
卒業後、鹿児島県庁における鹿児島県教育庁の職員となった瀬川は、NHK鹿児島放送劇団に竹下と所属し二足の草鞋を履きながら、劇団では幹部として10年間活躍[3][6][7]。1951年(昭和26年)からは、ラジオを中心に数々の音楽番組やドラマなどに出演[7]。どのラジオドラマでも主役級を演じ、重厚な演技を数多く聞かせた[7]。
MBC南日本放送時代
ラジオ南日本[注釈 2]に就職した竹下は1956年(昭和31年)4月、アナウンサーの仕事から待望していたラジオ編成部のラジオ制作を行う部署に移動[7][8]。 1958年(昭和33年)12月に完成する天文館の林田センターが5分帯のラジオ番組を提供することになり、同年10月の改変期にその新番組の企画を命じられた竹下は[6][7][8]お互いを良く知る間柄で技能も人柄も良く解っていた瀬川に声をかけ口説く[6][8]。多人数でドラマに出演する劇団では、出演は配役の一つに限られるため、その立場に物足りなさを感じていた瀬川は、1本の番組を任され自身の力量を試せることに魅力を感じ、引き受ける[6]。
瀬川と組むのが夢だった竹下は、瀬川の持ち味が十分に発揮できるような瀬川のための番組にしようと、いろは順に48文字の中から毎日ひとつの文字で始まる言葉をテーマにし、その言葉にまつわるショートコントや音楽で面白おかしく構成した『ラジオいろは辞典』を企画し、番組は毎日5分間、放送される[6][7]。NHK鹿児島放送劇団での活動を通じて標準語を叩きこまれていた瀬川は、放送開始からの2年間は標準語だけで通していた[6]。「9時30分、林田センターは、ただ今開店いたしました」のカウキャッチャーで始まる内容が定着したある日、竹下は瀬川に「たまには鹿児島弁を使ってみようか」と提案[6]。それまで標準語ばかりだったラジオから流れる鹿児島弁でのショートコントが受け、手ごたえを感じた瀬川は、鹿児島弁を時々盛り込むようになる[6]。ラジオ南日本で瀬川が担当した最初の番組であるラジオいろは辞典は一躍人気となり、とりわけスポンサーの商品購買層である家庭の主婦に人気を得た事は、林田センター発展のため大きな力となり[8]番組は長期間、継続する[7]。
自社番組が充実してくるのに伴い、歌や踊りの司会を軽快にこなし、時にはコントで笑いをとるタレントが必要になってきたラジオ南日本から[6]、公開録音やラジオドラマなど他の番組からも出演依頼が続いた瀬川は、それまで勤務していた鹿児島県教育庁を退職し、1958年(昭和33年)にラジオ南日本の専属タレント第1号となり放送の仕事に専念[3][7]。
テレビ開局の準備が進められていた1958年(昭和33年)、ラジオが対抗するには差別感が必要と考えた竹下は、この頃に薩摩狂句が盛んになっていたことに目を付け、100パーセント鹿児島弁のラジオ番組を構成したいと構想[6]。鹿児島県内の学校では、鹿児島弁を使わず標準語を話そうという教育が行われており、鹿児島弁を放送で使うことには賛否両論があったが、上品な正しい鹿児島弁を使った娯楽番組なら受け入れられるはずと、鹿児島市の士族に伝わる鹿児島弁を用いることを決意[6]。そんな鹿児島弁を使いこなせる者を竹下が公募し、73歳から20歳までの者が集まった「MBC鹿児島弁タレントの会」が発足[6]。1961年(昭和36年)、ラジオ南日本の開局と同時に設立された南日本放送劇団と瀬川ら専属タレントが合併し、MBCタレントグループとして活動することとなり、1962年(昭和37年)には『お笑いさつまジョッキー』が『さつまお笑い劇場』に衣替えすることに伴い、MBC鹿児島弁タレントの会も解消され、MBCタレントグループに合併[6]。
鹿児島弁を使う面白い男がいると瀬川の人気は高まり、『サンヨー電話リクエスト』のレギュラー司会者としてマイクに向かい、押しも押されぬタレントとして朝に夕にテレビ、ラジオで活躍[6][8]。『城山スズメ』では約20年にわたってディスクジョッキーとして活躍[3]。1973年(昭和48年)4月15日に開始したアナウンサーの安田勝英によるスタジオ公開生放送番組『やったんこのちぇすといけ!ヤング』では、荒田香津丸の「ヤングさつま狂句学校」、ストッカー、後にロイヤーと組み瀬川洋一郎による鹿児島弁講座「薩英辞典」が、いずれも軽妙なトーク、言葉のやり取りの面白さを追い求めた内容で、スタジオは大爆笑であった[9]。
1973年(昭和48年)7月2日、MBCテレビで『奥様ワイド・MBCですこんにちは!』が開始され、開始時の司会は三浦雅夫と横山欣司が曜日を分けて担当し[注釈 3]、番組が終了した1986年(昭和61年)3月末までの放送回数は3260回超えとなる[10][11]。この番組内で1978年(昭和53年)10月から、瀬川と志摩れい子が司会を務める「かごしま今昔」が、週1回のコーナーとして開始[12]。古くから鹿児島に伝わる暮らしの知恵や習わしを紹介する、全て鹿児島弁を用いるミニドラマがスタジオにおいて生放送で行われ、ミニドラマにはMBCタレントグループに所属している、さつまお笑い劇場にも出演しているメンバーが出演[12]。その後に、郷土史家であり脚本を書いた北山易美による解説を、瀬川と志摩が質問しながら聞くコーナーで、1987年(昭和62年)7月には脚本集が出版される程の人気となる[12]。
このコーナーは、後継番組として1986年(昭和61年)4月から1989年(平成元年)10月まで放送された『ふれあいタウン・きゅーと55[注釈 4]』や、1990年(平成2年)7月から朝のワイド番組として、司会を藤原一彦が務め公開生放送された『MBCてれび通り』でも放送され[14]、番組を変え400回以上放送された[11][12]。MBCテレビ放送開始50周年を記念して、2009年(平成21年)4月3日からは金曜5時40分から、2011年(平成23年)4月3日からは日曜6時頃から20分枠で『MBCテレビ50 かごしま今昔』として再放送され、2015年(平成27年)3月29日まで続いたほか、鹿児島県民からの多くの要望を受け2009年(平成21年)12月7日から2011年(平成23年)12月20日にかけ第5巻までDVD化された[15][16][17][18][19][20]。
地方公共団体などの依頼で講演を行うこともあった[21][22]。さつまお笑い劇場には、亡くなる年の2005年(平成17年)3月まで出演[3]。朝の生放送ワイド番組など[23]、MBC専属タレント第1号としてMBCでは47年にわたり、NHK鹿児島放送劇団の頃も含めれば50年近くにわたってラジオやテレビで活躍[7]。
死去
2005年(平成17年)7月12日13時11分、多臓器不全のため鹿児島市内の病院において75歳で死去[3]。同日夜、鹿児島市西陵の自宅で行われた通夜には、MBCをはじめとしたマスコミ関係者や友人らが相次いで訪れ、告別式は7月13日に斎場で行われた[3]。
7月16日には1時45分からMBCテレビで、7月25日には21時からMBCラジオで追悼番組が放送された[3]。
人物
ユーモアたっぷりに薩摩狂句など郷土の文化や芸能などを鹿児島弁を交えながら伝え、飄々とした巧みな話術の軽妙な語り口が人気で[3][7]、MBCといえば瀬川洋一郎と呼ばれるほど絶大な人気を博し、鹿児島の言葉や風習などの伝承に力を尽くす[7]。その人気と影響力は、鹿児島市長の2015年(平成27年)の新春対談で当時の市長であった森博幸と西郷輝彦が瀬川の名を口にする程であった[24]。
趣味はプラモデル作りで[1]32分の1や72分の1スケールモデルの軍用機のプラモデルを主に作っており[2]、40代半ばの頃の趣味は磯釣りを除く釣りであった[2]。40代半ばの頃、読書は主として戦記を愛読しており、バランタイン・ブックス(英語: Ballantine Books)版の「第二次世界大戦ブックス」を全巻と、朝日新聞社の「朝日=ラルース 週刊 世界動物百科」を全巻読んだ[2]。
結婚式でのスピーチが苦手であった[1]。好きな食べ物は炊きたての御飯で、好き嫌いは無かった[1]。40代半ばの頃は、45羽の小鳥と約35匹の熱帯魚を飼っていた[2]。40代半ばの頃は、懐メロ会の幹事や十五日会の会長も任されていた[2]。
妹が2人おり、娘がいる[2]。瀬川は家族が宝物と公言するほど家庭を大切にし[1]、瀬川が亡くなった際には「とても気配りがあった人」「いつも人を楽しませた人」「人の悪口は一切口にしなかった人」という感想が多くの人から寄せられ[7]、竹下もMBCの社内報に寄稿した追悼文で「言葉の天才、鹿児島弁の達人。深遠な感覚を持った善人」と讃えるほどの人格者であった[7]。瀬川が亡くなった当時、MBCのキャスターだった横山欣司は「とても尊敬する先輩だった。鹿児島の言葉を大変愛していらした方」、ラジオ番組『城山スズメ』で共に約20年間ディスクジョッキーを務め、鹿児島市議会議員だった志摩れい子は「まるで片腕をもぎとられたような気分。ひとつの時代が終わったのかなと思う」、MBCタレントの猪俣睦彦は「方言を通じて鹿児島の心を教わった。大きな柱を失った感じ」、ラジオさつま狂句で一緒だった薩摩川内市の有馬二刀流[注釈 5]は「鹿児島弁の達人。とんちが利き、まわりに気配りをされる方だった」と述べている[3]。