火薬帝国
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火薬帝国[1] (英語: Gunpowder Empires)とは、中世から近世にかけて、火薬、火器を用いて勢力範囲を広げ、またそれらから支配体制・社会構造の形成に大きな影響をうけた国を指す歴史学上の概念、仮説である。特にオスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国の三帝国について用いられる。
新しく発明された火器、特に大砲と小火器(銃)の使用と発展によって、イスラム系火薬帝国による拡張過程で広大な領域が征服された。騎士の没落と王権の強化を生み出したヨーロッパの場合と同様に、ここでも火薬兵器の導入が中央集権化された君主制国家の台頭などの変化を促した。 G. S.ホジソンによれば、火薬帝国におけるこれらの変化は、単に軍事組織の変化に留まる物ではなかった[2]。

火薬帝国という概念はシカゴ大学のマーシャル・ホジソンとウィリアム・ハーディー・マクニールによって提唱された。ホジソンは1974年の著作『The Venture of Islam』の第3巻に"The Gunpower Empires and Modern Times"というサブタイトルを付けた。ホジソンは、モンゴル帝国の後にアジア中西部の主導権を握った、不安定で地理的な制約を受けたテュルク系民族の諸国家を、中世後期の「軍事的パトロン国家」が一掃した事象について、火薬兵器が鍵を握っていると位置付けた。ホジソンは「軍事的パトロン国家」を次のように定義している。
一つ目に、王朝の独立した法が整備されていること。二つ目に、軍が統一された単一の国家という概念があること。三つ目に、すべての経済的・文化的な資源を、軍を握っている一族(王族)の有するものとして説明しようという試みがなされていること[3]。
このような指標はモンゴル帝国の偉大さを説明する指標としては当てはまらないが、この指標を満たせば、より後の時代の官僚機構の整った安定的な帝国を形成できるとした。しかしそれは、火薬兵器の登場と、軍隊を生活の中心とする兵たちによる技術の成熟があってこそのものであるともされた[4]。
マクニールは、「新兵器である大砲の独占がかなったとき、中央政府はより広い領土を、新たな、もしくは新たに統合された帝国に統一することができる。」と説いた[5]。特に「独占」が重要であった。ヨーロッパでは15世紀の段階ですでに大砲技術が進歩していたが、それらを独占できた国は無かった。銃火器の鋳造技術はスヘルデ川・ライン川河口付近の低地地方で発展したが、この地域はフランスとハプスブルク帝国に分割された結果、火器の登場の意義は軍事的な革命の域にとどまった[6]。これに対し、西アジア、ロシア、インド、そしてより変則的な類型としては中国や日本においても、火器の独占に成功した勢力による軍事的な拡張と帝国の形成がみられた[5]。
近年の評価と問題点
後の歴史家たちからは、ホジソンやマクニールの火薬帝国仮説は不十分で不正確な説明に過ぎないとしてあまり肯定されていないが、それでも「火薬帝国」という用語は用いられ続けている[7]。非集権的なチュルク部族国家群が占めていた地域に、3つの集権的帝国がほとんど同時に興隆したことについては、軍事面以外からも様々な説明が試みられている。例えば15世紀ヨーロッパを研究している歴史家たちからは「宗派化」(Confessionalization)、すなわち国家が信仰告白や教会布告などを通じて教会との関係を深めたことが、中央集権化や絶対主義の発生をもたらしたという概念を提唱している。ダグラス・ストレウサンドは、これをサファヴィー朝を例にとって説明している。
サファヴィー朝は当初から一般臣民に新たな宗教的アイデンティティを強制した。言語的アイデンティティの育成によらないその政策には効果があった[8]。
ホジソンとマクニールの理論の問題点の一つとして、ムガル帝国を除く2国は、実のところ初期の急拡大にそれほど火器が係わっていないということが挙げられる。さらに3国とも、火薬兵器を獲得する前から既に軍事的専制体制が形成されていた。火薬兵器の獲得と軍隊への導入が、実際に数あるイスラーム国家の中で特定の3つの帝国の興隆をもたらしたものであるとも思われない[9]ただ、火薬の存在が3つの帝国の存在と本質的に結び付いていたかどうかは定かでないとしても、三国それぞれがその歴史の早い段階で大砲や火器を導入し、軍事戦略の一部として取り込んでいたのは確かである。
三帝国における火薬兵器
オスマン帝国
三帝国の中で最初に火薬兵器を導入したのは、14世紀に射石砲を導入したオスマン帝国であった[10]。この対応と、それに伴う兵器製造の進歩や、火器を持ち専門化された常備兵の整備は、ヨーロッパや中東の敵対勢力と比べて極めて早いものだった[11]。周辺諸国はオスマン帝国の変容に衝撃を受け、サファヴィー朝とムガル帝国が火器を導入するきっかけとなった。オスマン帝国は少なくともバヤズィト1世の時代には大砲を配備しており、コンスタンティノープル包囲戦に使用している。攻城兵器としての大砲の優位性は、1430年のテッサロニキ攻略で証明された[12]。オスマン帝国はヨーロッパ人の鋳造所を用いて大砲を製造し、1453年のコンスタンティノープル包囲戦では巨大なウルバン砲を用いて城壁に巨大な砲弾を浴びせ、防衛軍を驚愕させた[13]。

オスマン帝国の火器の導入速度はヨーロッパ諸国を上回っていた。もともと弓矢を用いる近衛歩兵だったイェニチェリは、メフメト2世の時代に銃兵としての訓練を課され、「おそらく世界で最初の火器を装備した独立部隊」となった[12]。大砲とイェニチェリの小銃を連携させる戦術は1473年の白羊朝に対するバシュケントの戦い[14]、1526年のハンガリーに対するモハーチの戦いでその真価を発揮した。そうした戦いの中で最も火薬兵器の真価が発揮され、サファヴィー朝やムガル帝国に大きな影響を与えた戦闘は、1514年のチャルディラーンの戦いである。

オスマン帝国はチャルディラーンの戦いでサファヴィー朝と衝突した。このシーア派の宿敵と戦うためにオスマン帝国のセリム1世が東部戦線に野戦砲を輸送させたのに対し、サファヴィー朝のイスマーイール1世は各地の諸侯の騎兵軍を召集して集結させ、オスマン軍の陣営に突撃させた。オスマン軍は、大砲を荷車の間に設置し、イェニチェリを守る防壁とした。砲撃と銃撃を受けたサファヴィー朝の騎兵は壊滅的な損害を被った。勢いに乗ったオスマン軍はサファヴィー朝の首都タブリーズまでも一時期占領し、多くの都市を奪った[15]。
サファヴィー朝
チャルディラーンでの敗北によりイスマーイール1世の拡張政策は頓挫した。彼はしばらく政治や軍事への情熱を失い、火薬兵器を導入するなどの対策もすぐには行わなかった。敗北から2年後、イスマーイール1世は8000人のマスケット銃兵隊トフェングチを創設し、1521年までに2万人にまで規模を拡大させた[16]。半世紀後のアッバース1世は、1598年ごろに軍制改革を行い、500門の大砲と1万2000人の銃兵を配備した[17]。
サファヴィー朝は、イスマーイール1世の死去後に起きた動乱に乗じて侵攻してきたウズベクに対する戦争で、火薬兵器を投入した。タフマースプ1世は自ら軍を率いてヘラートを奪回し、1528年9月24日のジャムの戦い でウズベクと激突した。この戦いでサファヴィー軍は、大砲を中央において両翼に荷車と騎兵を展開した。この様について、ムガル帝国のバーブルは「アナトリア流」と評している[18]。数千人の銃兵を軍の中央に置いたのも、オスマン帝国のイェニチェリにならった布陣だった。ウズベク軍の騎兵はサファヴィー軍の両翼を攻撃して後退させたが、タフマースプ1世が中央の銃兵を鼓舞してウズベク騎兵を攻撃し、決定的勝利を収めた[19]。
ムガル帝国

ムガル帝国の創設者でありバーブルは、チャルディラーンの戦いで同盟者イスマーイール1世が敗れた後に火薬兵器や野戦砲、またその戦術を積極的に取り入れた。彼がローディー朝のラホール太守ダウラト・ハン・ローディーを助けてインドに侵入し、スルターンのイブラーヒーム・ローディーと戦った時点で、すでにバーブルは火薬兵器をよく運用できるようになっていた。彼はオスマン帝国の技術者ウスタッド・アリー・クリーを雇い、大砲機動や銃歩兵を中央において荷車で守りつつ両翼に弓騎兵を配置するというオスマン型の戦術を吸収した。この新技術導入は、1526年の第一次パーニーパットの戦いでの大勝利につながった。圧倒的多勢なローディー朝のアフガン人・ラージプート連合軍に、バーブル率いる小規模なティムール朝残党が圧勝できた一因は、君主のバーブルが実際に戦闘に参加した点にもあった。これはムガル帝国史上ほとんど無いことであった[20]。
- ムガル帝国のマスケット銃兵