狩野松栄
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松栄の兄2人が早世したため、狩野家を継いだ。天文期には元信に従って、石山本願寺の障壁画制作に参加し(作品は現存せず)、門主・証如より酒杯を賜っている。おそらく、当時最大の顧客であった証如と引き合わせるための元信の配慮であろう。続いて元亀年間は、宮廷や公家と交渉していた記録が残っており、後の狩野派飛躍のために目立たぬ努力をしていたのが窺える。
永禄9年(1566年)に永徳と共に描いた大徳寺塔頭聚光院の障壁画が有名。この2年後には大友宗麟の招きで旅に出ており、途中の厳島で年を越し絵馬を奉納した。天正に入ると永徳の活躍が目立ち、松栄は動静の詳細をたどれなくなるが、おそらく永徳のサポートに徹していたのであろう。永徳の死(1590年)の2年後、天正20年(1592年)に74歳で逝去。
画才では、時代様式を創り出した父・元信や子の永徳に及ばなかったが、元信様式を忠実に受け継ぎ、狩野派の伝統的な祖法として定着させた。その画風は永徳のような迫力に欠け、鑑賞者にやや地味な印象をあたえるけれども、筆致は柔軟で温雅さがある作品を残した。
門人に「豊国祭礼図屏風」や「南蛮屏風」で知られる根岸御行松家初代の狩野内膳、築地小田原町家と芝金杉片町家の祖となる狩野宗心などがいる。
