狭井氏(佐為氏)は物部氏が改氏した石川朝臣と同祖で、饒速日命の子孫と言われている。『播磨国風土記』には、弥加都岐(みかづき)の原の項目に、仁徳天皇の時代の狭井連佐夜(さいのむらじさや)という人物のことがあげられている。彼は天皇の命で節度のない伯耆国と因幡国の豪族を呼びにゆき、その折に服部弥蘇連(はとりべ の みそ の むらじ)の娘2人を発見している[1]。また『日本書紀』巻第二十七には、百済救援戦の際に活躍した狭井連檳榔(さい の むらじ あじまさ)のことが描写されている[2]。
狭井連一族は、天武天皇13年(684年)に八色の姓が制定されたことにより、宿禰を賜姓されている[3]。