守部大隅
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経歴
『続日本紀』巻第一によると、文武天皇4年(700年)、刑部親王以下19人と共に大宝律令の撰定者となり、その功績によって白猪史骨・土師宿禰甥らと共に禄を与えられた。この時は位階は黄文連備・田辺史百枝・道君首名と同じ「追大壱」(正八位上に相当)である[2]。『続紀』巻第五では、元明朝の和銅4年(711年)4月に黄文備・道首名らと共に正六位上から従五位下に昇叙[3]。巻第八では元正朝の養老4年(720年)10月には従五位上で刑部少輔に叙された[4]。
また、翌養老5年(721年)には、正月24日、25日と地震が続いたのがショックであったのか、天皇は以下のような詔を出された。
- 至極公平で私心のない心を持ち、忠節の心で君主に仕え、各々が職務を全うし、役所から食事のために退出する、ということを続ければ、五帝の舜について歌った康哉(こうさい)の歌が起こるのも遠からじとして、風雨雷震の際には忠義の心で諫めるようにして欲しい。
- 文人と武人はともに国家にとって大事であり、医術・卜筮(ぼくぜい)・方術は古今尊ばれる。百官の中から学業を修めた人に褒賞を与えたい。
かくして、その中の一人に鍛名造大隅が選ばれ、明経第一博士として越智広江と共に絁(あしぎぬ)20疋・絹糸20絇(く)、麻布30端、鍬20口が与えられ、表彰されたという[5]。ただし、次の月にも地震があった[6]。巻第十によると、聖武朝の神亀5年(728年)2月、勅令により、守部連の氏姓を賜った[7]。同年8月、書状をしたためて、骸骨を乞うた(致仕を申し出た)が、詔により許されず、絹十疋、あしぎぬ十疋、真綿100疋、麻布40端を与えられた[8]。以後の記録はない。
このほかにも、『令集解』に引用された「賦役令」舎人史生条によると、神亀4年正月廿六日の格に「令制正五位鍛名造大隅」とあり、同書の「考課令」にも「其清慎之善、当朝得人、守部大夫独也」ともある。『藤氏家伝』下(「武智麻呂伝」)にも、神亀年間(724年 - 729年)中の宿儒(経験と名望のある儒者)の一人として名があげられている。