玉造団
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歴史
軍団制は大宝元年(701年)制定の大宝令施行までに設置されたが、丹取団がいつ置かれたかは不明である。ただし、丹取郡は和銅6年(713年)12月2日に新設されている[1]。
丹取軍団は神亀5年(728年)4月11日に玉作軍団と改称した[2]。この頃丹取郡は約10の小さな郡に分割され、その一つが玉造郡だったと考えられている。
玉造郡には、天平9年(737年)までに玉造柵という城柵が置かれた[3]。
胆沢城跡から出土した漆紙文書に、延暦21年(802年)6月29日の日付がある玉造団擬大毅志太(以下不明)の解文の断片がある。対蝦夷戦争のさなか、胆沢城が完成した年である。志太は志田郡の豪族であろう[4]。
弘仁2年(811年)に陸奥国の軍団兵士は4000人から2000人に減らされ、玉造団と名取団に1000人ずつ計2000人を残すのみとなった[5]。
弘仁6年(815年)8月に4個軍団が増設されてから、陸奥国では6団6000人が6交代制で常時1000人の兵力を駐屯地に維持することになった[6]。玉造団の兵士は、小田団・名取団とともに3軍団で常時400人を胆沢城の鎮守府に、100人を玉造塞(玉造柵)に駐屯させたようである。この時の定員は、標準的な各団1000人であろう。
後に磐城団が増設されて7団7000人となり、承和10年(843年)に1000人を増員して7軍団に割りふった[7]。玉造団の増員後の兵力は不明だが、引き続き鎮守府の守備にあたった[8]。玉造塞の守備が廃された時期は不明である。
10世紀に編まれた延喜式にも陸奥国に7団を置くことが規定されており、軍団の構成は変わらなかったと考えられる[9]。11世紀までに廃絶した。