王凝

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王 凝(おう ぎょう、821年 - 878年)は、唐代官僚は致平[1]、または成庶[2]本貫太原府晋陽県[3]

衡州刺史の王衆仲の子として生まれた。河東県令の王重(王翊の子で、王正雅の従弟)の孫にあたる。幼くして父を失い、母の兄弟の鄭粛に養育された。15歳で両経に及第した。『京城六崗銘』を著して、文士に称賛された。さらに進士甲科に及第した。崔璪が塩鉄使となると、王凝は召し出されて巡官をつとめた。梓潼・宣歙使の幕下で補佐役を歴任した。宰相の崔亀従の推薦により鄠県県尉・集賢殿校理となった。監察御史に転じ、殿中侍御史に進んだ。宰相の崔鉉揚州に出向すると、王凝はその下で節度副使となった。入朝して起居郎となり、礼部員外郎・兵部員外郎・考功員外郎を歴任した。司封郎中長安県令に転じた。御史中丞鄭処誨の推薦により、考功郎中に転じ、中書舎人となった。ときの政権と合わず、同州刺史として出された。年の暮れ、病のため華州敷水の別荘に移った。翌年、礼部侍郎として召還された[1][2]

王凝は性格が確固として正直であり、科挙により人士を取り、身分の低い者から俊英を抜擢した。権貴の請託を行わず、その怒りを買って、商州刺史に出された。翌年、検校右散騎常侍・潭州刺史・湖南都団練観察使となった。入朝して兵部侍郎となり、塩鉄転運使を領知した。乾符2年(875年)、僖宗の近臣の意に沿わず、秘書監に転じた。河南尹・検校礼部尚書として出向した。乾符4年(877年)、宣州刺史・宣歙観察使に転じた[1][2]

乾符5年(878年)、黄巣和州を包囲したことから、王凝は牙将の樊儔に軍を率いさせて采石に拠らせ、和州を救援させた。樊儔が軍令を犯したため、王凝は樊儔を斬って、別将の烏穎に命じて樊儔の代わりに和州救援に赴かせ、歴陽の包囲を解かせた。反乱軍は怒って、兵を率いて宣城を攻撃しようとした。大将の王涓が出撃して迎え撃とうとしたので、王凝はこれを止めようとしたが、王涓は聞き入れず出撃した。王凝は壮丁を集めて要害を分守し、城壁の上に防備を設けた。王涓は戦死し、反乱軍は勝利に乗じて宣州に来攻してきたが、王凝が防戦の準備を整えていたため、数カ月の包囲を耐え抜き、反乱軍を撤退させた。この年の夏、王凝は病床についた。8月、宣州で死去した。享年は58。吏部尚書の位を追贈された。は貞といった。後継となる男子はなく、弟の王洧の子の王鑣が後を嗣いだ[4][5]

脚注

伝記資料

参考文献

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