鄭粛
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代々の儒学の家に生まれ、苦心して勉学につとめた。元和3年(808年)、進士に及第し、さらに書判抜萃科に登第した。節度使の補佐役を歴任した。大和2年(828年)、入朝して尚書郎となった。大和6年(832年)、太常寺少卿に転じた。鄭粛は古文を作ることができ、経学に長じ、『春秋左氏伝』・三礼・儀注に疑義があったときには、博士以下が必ず鄭粛について決定した[2][1]。
鄭粛は本官のまま魯王李永の下で魯王府長史を兼ねた。この年、李永が皇太子となると、鄭粛は給事中を加えられた。大和9年(835年)、刑部侍郎となった。ほどなく尚書右丞に転じ、判吏部西銓事をつとめた。開成元年(836年)、陝虢都防禦観察使として出向し、御史大夫を兼ねた。開成2年(837年)9月、長安に召還されて吏部侍郎に任じられた。太子賓客を兼ね、皇太子李永に経学を教授した。文宗が楊賢妃を寵愛して李永を廃嫡すると、開成4年(839年)に鄭粛は検校礼部尚書となり、河中尹・河中節度・晋絳慈隰観察等使として出向した。会昌元年(841年)、太常寺卿となった。戸部尚書・兵部尚書を歴任し、検校尚書右僕射・山南東道節度使として出向した[3][4]。
会昌5年(845年)7月、本官のまま同中書門下平章事(宰相)となった[5]。会昌6年(846年)4月、検校尚書左僕射となり、中書侍郎を兼ねた。9月、宰相を退任し、荊南節度使となった[6]。病のため辞職し、太子太保に任じられた。のちに死去した。司空の位を追贈された。諡は文簡といった[3][7]。