王審琦

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王 審琦(おう しんき、917年 - 986年)は、五代後漢から北宋初期にかけての軍人。字は仲宝。本貫并州晋陽県陳橋の変の功臣であり、杯酒釈兵権で兵権を剥奪された四大功臣の一人[1]

経歴

後漢の乾祐年間に殿前散指揮使・閤門祗候となった。後周広順元年(951年)に内殿直都知に転じた。顕徳元年(954年)に高平の戦いでは先鋒を務め、北漢軍を撃破した[1]

建隆元年(960年)、陳橋の変趙匡胤の即位を強く支持。宋が建国されると、侍衛親軍馬軍都指揮使に任じられ、まもなく義成軍節度使として出向した[1]

建隆2年(961年)、杯酒釈兵権石守信慕容延釗らとともに酒宴に招かれ、翌日ただちに病と称して兵権を返上した[2]

その後は天平軍節度使・同州大都督・忠正軍節度使などを歴任し、開宝9年(976年)に太宗即位の功で侍中に進んだ。太平興国4年(979年)に北漢征伐を従軍したが、すでに老齢だった[1]

雍熙3年(986年)に洛陽で病没した。享年は70。太宗は「忠厚旧臣」と悼み、使持節・太原尹・中書令を追贈し、魏国公に追封した[1]

家族

  • 子:王承衍(北宋中期に武官)
  • 子:王承幹(崇儀使)[1]

脚注

参考文献

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