王涯
From Wikipedia, the free encyclopedia
経歴
博学で文章を作るのを得意とした。梁粛と面会し、かれに才能を認められて、陸贄に推薦された。貞元8年(792年)、進士に及第し、博学宏辞科に登第した。藍田県尉を初任とした。貞元20年(804年)11月、翰林学士をつとめた。右拾遺・左補闕・起居舎人を歴任した。元和3年(808年)、宰相の李吉甫の怒りを買い、翰林学士から罷免され、都官員外郎のみとなった。さらに虢州司馬に左遷された。袁州刺史に転じた。元和5年(810年)、入朝して吏部員外郎となった。元和7年(812年)、兵部員外郎・知制誥に転じた。元和9年(814年)8月、中書舎人に任じられた。元和10年(815年)、工部侍郎・知制誥に転じ、通議大夫を加えられ、清源県開国男に封じられた。元和11年(816年)12月、中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった。元和13年(818年)8月、宰相から退任し、兵部侍郎のみとなった。ほどなく吏部侍郎に転じた[3][2]。
元和15年(820年)、穆宗が即位すると、王涯は検校礼部尚書・梓州刺史・剣南東川節度使として出向した。この年の11月、吐蕃が南北から挟撃するように唐の西辺に侵入してくると、剣南両川の兵に迎撃が命じられた。吐蕃軍が雅州に迫ると、王涯は金帛を報酬にして回鶻の援軍を得るよう上疏した。穆宗は王涯の計策を用いることができなかった[4][5]。
長慶元年(821年)、幽州と鎮州で反乱が起こり、官軍がその討伐に向かったが、勝利の知らせがなかった。王涯は用兵を論じて鎮州を先に討つよう上書した[6]。
長慶3年(823年)、王涯は入朝して御史大夫となった。長慶4年(824年)、敬宗が即位すると、王涯は戸部侍郎に転じ、御史大夫を兼ね、塩鉄転運使をつとめた。まもなく塩鉄転運使のまま礼部尚書となった。宝暦2年(826年)、検校尚書左僕射・興元尹・山南西道節度使として出向した。検校司空を加えられた[7][8]。
大和3年(829年)1月、王涯は入朝して太常寺卿となった。大和4年(830年)1月、王涯は検校司空・吏部尚書となり、再び塩鉄転運使を領知した。この年の9月、尚書左僕射に転じた[7][8]。
大和7年(833年)7月、王涯は本官のまま同中書門下平章事となり、代国公に進封された。大和8年(834年)1月、検校司空・門下侍郎・弘文館大学士・太清宮使を加えられた。大和9年(835年)5月、正式に司空に任じられ、開府儀同三司を加えられた。そのまま江南榷茶使を兼領した[7][9]。
11月21日、李訓らが発動した甘露の変が失敗に終わると、王涯は永昌里の茶肆にいたところを禁兵に捕らえられ、仇士良の取り調べを受けて李訓らと共謀したと誣告された。王璠や羅立言とともに左軍の兵馬に市中を引き回され、長安子城の西南隅の独柳樹の下で腰斬された。王涯は茶の専売のことで民衆の恨みを買っており、その遺体に瓦礫を投げつけられた。巨万に及んだその家の財産は兵士や民衆たちに略奪された[10][11]。