王質 (唐)
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王潜の五男として生まれた。寿春に寓居して、自ら耕作して母を養い、もっぱら講学を生業として、門人たちを集めた。元和6年(811年)、進士甲科に登第した。嶺南管記を初任とし、蔡州・許州・梓州・興元府の4州府の補佐役を歴任して、監察御史を兼ねた。入朝して殿中侍御史となり、戸部員外郎に転じた。旧府の推薦により、検校司封郎中となり、山南西道節度副使をつとめた。入朝して戸部郎中となり、諫議大夫に転じた[1][2]。
大和5年(831年)、王守澄が宰相の宋申錫を誣告すると、文宗は怒って、宋申錫を処刑しようとした。王質と崔玄亮が泣いて諫めたため、宋申錫は左遷されるにとどまった。王質は宦官たちにうとんじられ、虢州刺史として出された。李徳裕が宰相となると、王質はその礼遇を受け、国事には必ず王質の諮問を受けて決定された。ほどなく王質は召還されて給事中・河南尹となった。大和8年(834年)、宣州刺史となり、御史中丞を兼ね、宣歙団練観察使をつとめた[3][2]。開成元年(836年)12月、病の徴候なく突然に死去した。享年は68。左散騎常侍の位を追贈された。諡は定といった[4][2]。