王質 (唐)

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王 質(おう しつ、769年 - 836年)は、唐代官僚は華卿。絳州竜門県の出身。本貫太原府祁県[1][2]

王潜の五男として生まれた。寿春に寓居して、自ら耕作して母を養い、もっぱら講学を生業として、門人たちを集めた。元和6年(811年)、進士甲科に登第した。嶺南管記を初任とし、蔡州許州梓州興元府の4州府の補佐役を歴任して、監察御史を兼ねた。入朝して殿中侍御史となり、戸部員外郎に転じた。旧府の推薦により、検校司封郎中となり、山南西道節度副使をつとめた。入朝して戸部郎中となり、諫議大夫に転じた[1][2]

大和5年(831年)、王守澄が宰相の宋申錫を誣告すると、文宗は怒って、宋申錫を処刑しようとした。王質と崔玄亮が泣いて諫めたため、宋申錫は左遷されるにとどまった。王質は宦官たちにうとんじられ、虢州刺史として出された。李徳裕が宰相となると、王質はその礼遇を受け、国事には必ず王質の諮問を受けて決定された。ほどなく王質は召還されて給事中河南尹となった。大和8年(834年)、宣州刺史となり、御史中丞を兼ね、宣歙団練観察使をつとめた[3][2]開成元年(836年)12月、病の徴候なく突然に死去した。享年は68。左散騎常侍の位を追贈された。は定といった[4][2]

家族

  • 玄祖父:王通
  • 高祖父:王福祚(上蔡県主簿)
  • 曾祖父:王勉(宝鼎県令)
  • 祖父:王怡(渝州司戸参軍)
  • 父:王潜(天長県丞)[1]
  • 子:王慶存[4]

脚注

伝記資料

参考文献

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