琉球八景
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北斎が旅した先は、京都大阪及び紀州が最も遠方であり[注釈 3]、ましてや、薩摩藩の実質統治下ではあるが、対外上は「外国」の琉球王国[4][5][6]に渡れるはずがない。では、どうやって本図を描いたのか。
『八景』を見ると、船を通すために部分的にアーチを付ける石橋などは、明清期及び徳川期の名所図の定番である西湖図を思わせ、手本があると推測されていたが、それが、清朝の版本『琉球国志略』(1757年・乾隆22年)だと判明した[7]。後載する「図版一覧」を見れば、墨摺と錦摺の違いはあるものの、図柄は瓜二つである。
撰者の周煌(しゅうこう)は、1756年(乾隆21年)、冊封副使として来琉、約1年間滞在し、地誌や生活ぶりを記録し、『志略』にまとめたのである[8]。この版本は、徳川幕府も有用だと思ったのか、1831年(天保2年)に「官本」として、そのままの内容で版行する。北斎が目にしたのは「官本」の方だろう[9]。
翌32年(同3年)10月から11月にかけて、第二尚氏王統第18代尚育王の襲封[注釈 4]謝恩使として、豊見城王子を正使として江戸上りが行われる[9]。横山學によると、徳川期における琉球関連の版本は、重版も含め95点が確認されているが、殆どが謝恩使か、徳川将軍就任を寿ぐ江戸上がり慶賀使の時期と重なっている。その中でも、天保3年版行が23点と、最も多い。その理由として横山は、琉球及び朝鮮通信使が暫く訪れていなかったので[注釈 5]、江戸の人々にとって、久々の「祭り」気分になったからだろうと推測する[10]。
以上の点から、『八景』は、官本『志略』版行の翌年であり、謝恩使が江戸に着く直前の、1832年(天保3年)秋頃版行と考えるのが妥当である[9]。
図版の比較

周煌と北斎の図を見比べてもらえばわかるように、北斎は周煌図をほぼ踏襲している。 だが描き加えられたものもある。
- 舟:「臨海湖声」「 粂村竹籬」「龍洞松濤」「筍崖夕照」「長虹秋霽」「中島蕉園」
- 人々:「臨海湖声」「 粂村竹籬」「筍崖夕照」「長虹秋霽」「中島蕉園」
- 雪:「龍洞松濤」
- 月 :「泉崎夜月」
- すやり霞:全8図
琉球に行ったこともないのに、それぞれ良い効果をあげている。永田が言う「絵空事の天才」[11]である。1843-44年(天保4-5年)に版行された『雪月花』「隅田」は、「龍洞松濤」の焼き直しに見える。

逆に、周煌画にあって、北斎画に描かれなかったものもある。
- 雲:「泉崎夜月」
- 雲気:「城嶽靈泉」
「泉崎夜月」は、雲より月を描いた方が分かりやすい。
「雲気」とは、中国絵画で最も重要とされる「気」を雲として表現したものである。「気」は、南朝・南斉の謝赫による『古画品録』の第一にある「気韻生動(きいんせいどう)」から来るもので、写実的であることより、「気」を画に込めることこそ大切だとする思想[12]で、少なくとも明朝前半まではこの理想が維持された[13]。そして仏教及び儒教道教といった「唐」の思想(=テクノロジー)と共に、日本(特に京の公家・武家・高僧)にもこれらが浸透し、彼らをクライアントとする絵師は「気韻生動」の理想を貫いていたのである[14]。
周煌はこの地が「『靈(=霊)』泉」と聞き、雲気を描きこんだのだろうが、「絵空事の天才」北斎にとって、雲気は演出上不要だったのだろう。彼のクライアントは、漢籍に通じたエリート層ではなく、寺子屋止まりの町民である。難解な思想でなく、斬新で分かりやすい画が求められたのである。

なお北斎は、この作品より前に、曲亭馬琴の読本『椿説弓張月』(1807-11・文化4-8年)に挿絵を提供する。伊豆大島に流された源為朝が、琉球に渡って王女(わんじょ)と結ばれ、その子が琉球王朝の始祖と言われる「舜天」となる物語に沿って、描いている[15][16]。各描写を見ると、巌や松等の表現に唐画の影響がうかがえる。
図版一覧
- 泉崎夜月(せんざきやげつ)
- 周煌撰 泉崎夜月
- 臨海湖声 (りんかいこせい)
- 周煌撰 臨海潮聲(りんかいちょうせい)
- 粂村竹籬(きゅうそんちくり)
- 周煌撰 粂村竹籬
- 龍洞松濤(りゅうどうしょうとう)
- 周煌撰 龍洞松濤
- 筍崖夕照(じゅんがいせきしょう)
- 周煌撰 筍崖夕照
- 長虹秋霽(ちょうこうしゅうせい)
- 周煌撰 長虹秋霽
- 城嶽靈泉(じょうがくれいせん)
- 周煌撰 城嶽靈泉
- 中島蕉園(ちゅうとうしょうえん)
- 周煌撰 中島蕉園
なお、「長虹秋霽」に関しては、冊封使の為、当時は三角州であった那覇と琉球島を結んだ「長虹堤」を描いたもので、1451年に建造された[6][17][18]。那覇はその後、橋が「トンボロ現象」を招き、河川からの土砂堆積で陸繋島となった。