長虹堤
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かつての那覇は浅い入り江とその入口をふさぐように横たわる浮島と呼ばれる島から成っていた。浮島は現在の久米および松山付近に相当する。中国王朝からの使者は浮島に上陸し浅い海を渡って首里へと向かうことになっており、琉球王府は使者を迎える際に国中の船を集めて舟橋としていた。
1450年(景泰元年)に琉球国王に即位した尚金福王は1451年、翌年の冊封使を迎えるにあたり浮島と首里とを結ぶ堤防と橋からなる道路の建設を決め、当時の宰相懐機に下命した。懐機は海が深く波も高いことから人の力だけでは難工事になると考え、祭壇を設けて二夜三昼にわたる祈祷を行ったところ、翌日、潮が引き海底が現れたといわれる。この伝説はモーゼの海割り伝説と似ている。石井望の推測では、懐機は琉球大航海時代の主役であり、マラッカ等に渡航した琉球船を通じてイスラム文化に馴染んでおり、コーランの中にもモーゼ伝説が収録されていることから、懐機の周辺の人々にモーゼの海割り伝説が滲透した結果、長虹堤の海割り伝説を産んだとする[1]。
工事には身分の高い者から低い者まで多くの人々が参加している。工事の後、懐機は神威に感謝するため天照大神を祀る神社と長寿寺と呼ばれる寺院を建立した。一方、長虹堤建設に従事した安波根祝女(あはごんのろ)が病死し、これを不憫に思った人々が彼女を堤防の畔に埋葬し周囲に石垣を積んでこれを御嶽としたものが威部竈(いびがま)になったとの伝説がある[2]。
石井望は、懐機が天照大神を祭った意図は久米唐人村を封じ込めるためだとして、その根拠として、第一に長寿寺が長虹堤の西口と久米村との中間に位置すること、第二に伊勢神道は鎌倉時代以来の尊王思想であり、琉球では特殊であること、第三に懐機が唐人ではなく尚泰久王と同一人であるため日本の尊王思想が自然である[3]、第四に懐機は琉球大航海時代の主役であり、マラッカ等に渡航した琉球船を通じてイスラム文化に馴染んでおり、コーランの中にもマリア伝説が収録され、船乗りに守護神マリア信仰が普遍的であることから、天照大神を海の守護神マリアになぞらえて祭ったと推測する[4]。
当初は浮道と呼ばれていたが、1633年、冊封使の杜三策に付き従って琉球を訪れた胡靖が「遠望すれば長虹の如し」と述べたことから「長虹堤」と呼ばれるようになった[5]。長虹堤の建設によって浮島と首里とを隔てていた浅い海に土砂の堆積が進み干潟が形成された。また、交通の便が良くなったことから那覇への人口集中が進み住宅用地が不足するようになった。このため、1733年頃から干潟を埋め立てて住宅用地とする工事が進められるなど次第に内陸化していった[6]。1756年に冊封使として琉球を訪れた周煌による記録『琉球国志略』に収められた絵図「中山八景」に長虹秋霽という題目で長虹堤の様子が描かれている。また、この絵図を元にした葛飾北斎の筆による浮世絵『琉球八景』も制作された。明治に至るまでは十貫瀬道と呼ばれる主要道路として使われていたが、周囲の交通網の発達によって普通の街路となっている[5][7]。

