田忌
中国、戦国時代の斉の武将
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生涯
孫臏を登用
斉の使者が魏へ赴いた際、同門の龐涓に妬まれて両足を断たれていた孫臏は刑徒の身として使者と密会・説得し、孫臏を非凡であると見た使者が密かに斉へと連れ帰ると、田忌はその才能を認めて孫臏を自身の賓客として迎え入れた[1]。
田忌はしばしば斉の公子たちと競馬しており、孫臏はその競走馬の脚力がそれほど大きく違わず、上中下の三等に分かれているのを察したため、田忌に「君が重ねて賭けをなされば、私は必ず君を勝たせましょう」と進言した。田忌はこれを信じ、威王および公子らと千金を賭けて競馬に参加した。田忌の番が回ってくると、孫臏は「今君の下等の馬を相手の上等の馬に当て、君の上等の馬を相手の中等の馬に当て、君の中等の馬を相手の下等の馬に当てなさい」と入れ智慧し、これに従った田忌は二勝一敗で威王を破って千金を得た。このため田忌は孫臏を威王に推挙し、孫臏と兵法を語った威王は孫臏を軍師に起用した[2]。
桂陵の戦い
紀元前354年、魏に攻められた趙が斉に救援を求めると、威王は孫臏を将に任ぜようとしたが、孫臏は「刑を受けた身の者は将にはなれません」と辞したため、威王は田忌を将とし孫臏を軍師として輜重車の中に入れて伴わせた。田忌は直ちに兵を統率して趙へ向かおうとしたが、孫臏に「縺れた糸を解くには力任せに引いてはならず、争いを救うには直接殴り合ってはならない。要害を突き、虚を衝き、形勢を制すれば、自然と解けるものだ。今魏と趙が争っている以上、精鋭は外に尽き、国内は老弱ばかりで疲弊している。君は寧ろ疾走して大梁(魏の恵王の居城)を攻め、その要路を押さえ、虚を衝くべきである。然すれば魏は必ず趙を解いて自らを救おうとする。これで一挙に趙の囲みを解き、同時に魏に損害を与えることができる」(囲魏救趙の計)と説かれたため、田忌はこれに従った。魏は孫臏が読んだ通り邯鄲(趙の都)から退き、田忌はそこを急襲して勝利を収めた(桂陵の戦い)[3]。
馬陵の戦い
紀元前342年、魏と趙とが韓を攻め、韓は斉に急を告げた。威王は田忌を将として出陣を命令、田忌は大梁へ魏の龐涓が引き返すよりも早くに西進した。また、孫臏の「あの三晋の兵は固より勇猛だが斉を軽んじ、斉は臆病と評されている。戦いに巧みな者はこの形勢に乗じてこれを利用するものだ。兵法に曰く、百里を急いで利を争えば上将は疲弊し、五十里でも半ばしか到達できない。そこで斉軍が魏の地に入れば、初日は十万の竈を設け、翌日は五万、更に翌日は三万と減らせ」という進言に従った。すると、龐涓は三日進んで大いに喜び、「やはり斉は臆病だ。我が地に入って三日で兵の半数以上が逃げた」と言い、歩兵を捨てて精鋭の軽兵のみで急行した[4]。
孫臏はこれを聞くや、魏軍は夕方には馬陵に至ると判断、その馬陵が嶮岨に挟まれた隘路であったことを利用し、白く削った大木に「龐涓死于此樹之下」(龐涓はこの木の下に死す)と刻んだうえで弓の名手一万を馬陵の両側に伏せさせ「夕暮れ、火が上がったのを見て一斉に射よ」と命じた。果たして龐涓は夜にその木の下に至り、白い文字を火で照らしながら読もうとしたが、未だ読み終えぬうちに斉の伏兵が一斉に弩を放った。このため魏軍は瞬く間に混乱し、自身の最期を悟った龐涓は「遂成豎子之名」(豎子をして名を成さしむ)と言い放って自害した[5]。田忌は孫臏の策謀の成功に乗じて魏軍を急襲し、乱戦のなか魏の太子申を虜として斉に帰還した(馬陵の戦い)[6]。
鄒忌との対立
戦後、孫臏は田忌に「将軍は一仕事成し遂げる気はありますか」と問うた。田忌はその意図が理解できなかったが、孫臏は「将軍は武装を解いて斉に帰るべきではありません。疲弊した老弱の兵に主地(山東省)を守らせるのが良いでしょう。主地の道は狭く、車は一台ずつしか通れず、互いに擦れ合いながら進むほどです。このような地形であれば、疲れた兵でも一人で十人に当たり、十人で百人に当たり、百人で千人に当たることができます。そして将軍は泰山を背にし、左に済水、右に高唐を控え、輜重は真っ直ぐ高宛(山東省)に送ることができます。軽車と精騎のみで臨淄(斉の都)の雍門へ突入することも可能です。然らば斉の大権は将軍の手に帰し、そのとき鄒忌は必ず逃亡するでしょう。然もなくば、将軍は無事に斉へ帰れないかもしれません」と述べた[7]。
これは田忌が宰相の鄒忌と仲が悪く、かつて鄒忌は公孫閲の献策を受容し、威王に魏の討伐を説いて敗戦による田忌の失脚を狙ったことがあったためで(このとき田忌は魏に三戦三勝したため事なきを得ている)あるが、田忌は孫臏の勧めに従わなかった。果たして鄒忌は公孫閲の献策により、公孫閲に多額の金を持たせて市場で目立つように振る舞わせ、占師に「私は田忌将軍の部下である。将軍は三戦三勝し、名声は天下に響いている。今、大事を企てようと思うが、吉か凶か占って欲しい」と言った。占師が立ち去るや、公孫閲は人を遣ってその占師を捕らえ、この言葉を斉の威王の前で証拠として示した。田忌はこれを聞いて立つ瀬を失ったと察知、叛乱して臨淄を攻撃し鄒忌を求めたが、失敗して楚へ奔った[8][9]。
鄒忌は田忌が楚の助勢を得て斉へ帰国されることを恐れたため、臣の杜赫は楚の宣王に「鄒忌が楚と親しくしないのは、田忌が楚の力を借りて斉へ帰ることを恐れているからです。王は寧ろ田忌を江南に封じ、彼が斉へ戻らないことを示すのが宜しいでしょう。然すれば鄒忌は必ず斉を挙げて厚く楚に仕えるはずです。田忌は亡命の身でありながら封ぜられれば、必ず王に恩義を感じるでしょうし、もし斉に戻ったとしても、必ず斉をして楚に仕えさせるでしょう。これは二人の「忌」(鄒忌と田忌)を共に利用する策です」と説いた。このため田忌は江南に封ぜられた[10]。やがて、田忌は斉の宣王の命により斉へ帰国した[11]。
註釈
田忌の亡命と帰国の時期については諸説がある。司馬遷の『史記』「敬仲完世家」においては亡命が斉威王35年(紀元前322年とされる)[12]、帰国が斉宣王2年(紀元前318年とされる)と記されるが[13]、同書および「孟嘗君傳」には田忌は帰国後に馬陵の戦いに臨んだと記される[13][14]。馬陵の戦いは「六國年表」には周顕王28年と斉宣王2年が併記されているものの[15][16]、周顕王28年は今日においては紀元前341年とされる一方で、斉宣王2年は紀元前318年とされるのである。
なお、司馬光の『資治通鑑』においては亡命を顕王28年(紀元前341年とされる)[17]、帰国を顕王36年(紀元前333年とされる)に置いている[18]。『ブリタニカ国際大百科事典』が斉の威王を継いだ宣王の即位年に紀元前342年と紀元前324年という年代の掛け離れた二説を挙げるのは、このような記述の齟齬によるものと考えられる[19]。
以上の理由により、本記事においては他記事との無矛盾性を重視した年代表記を用いる。