田文炳
From Wikipedia, the free encyclopedia
| 田文炳 | |
|---|---|
|
『軍事月刊』第3期(1940年) | |
| プロフィール | |
| 出生: | 1891年(清光緒17年)[1] |
| 死去: |
没年不明(1966年時点では存命)[注 1] |
| 出身地: |
|
| 職業: | 軍人・実業家・軍務官僚・政治家 |
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 田文炳 |
| 簡体字: | 田文炳 |
| 拼音: | Tián Wénbǐng |
| ラテン字: | T'ien Wen-ping |
| 和名表記: | でん ぶんへい |
| 発音転記: | ティエン・ウェンピン(ティエン・ウェンビン) |
田 文炳(でん ぶんへい/でん ぶんぺい、1891年 – 没年不明)は、中華民国の軍人・実業家・軍務官僚・政治家。字は仲韜[1][2]。湖北新軍出身。直隷派有力者である斉燮元の配下。中華民国臨時政府や華北政務委員会においては、華北綏靖軍集団司令や河南省長などを歴任した。
初期の活動
1909年(宣統元年)に湖北陸軍軍官学堂を卒業し、翌1910年(宣統2年)、湖北常備軍で排長に就任した。1911年(宣統3年)、武昌起義が起きると、田文炳は革命派に参加している[3]。
中華民国成立後の1913年(民国2年)、河南都督公署(都督:張鎮芳)で参謀に任命される。1916年(民国5年)、総統府(総統:黎元洪)で庶務股長、参謀部弁事員を歴任した。翌1917年(民国6年)、直隷派有力者・斉燮元の配下となり、蘇浙巡閲使署上校参謀に任命された[3]。このほか、安徽省清郷総弁・皖北道尹もつとめたとされる[1]。
1924年(民国13年)、軍職からいったん離れると、資金を募集して振豫銀号を立ち上げた。両替業に加えて搾油・鶏卵の工場を運営したが、1935年(民国24年)に事業停止に追い込まれている。1937年(民国26年)には北寧鉄路路警教練所教員をつとめた[3]。
親日政権での活動
同年12月14日、王克敏が中華民国臨時政府を創設し、斉燮元は臨時政府常務委員兼治安部総長に就任した。田文炳は斉を頼って臨時政府に仕官し[注 2]、翌1938年(民国27年)1月、治安部総務局[注 3]第一科科長を委任されている[4][注 4]。同年9月、田は治安部保衛局少将局長に抜擢された[5][6]。
1940年(民国29年)3月30日、臨時政府は南京国民政府(汪兆銘政権)に合流し、華北政務委員会へ改組された。華北治安軍は華北綏靖軍、治安部は治安総署に、それぞれ改組となる。同年5月4日、田文炳は治安総署軍諮局局長代理に派出された[7]。翌1941年(民国30年)12月、綏靖軍を率いる斉燮元の下で第101集団司令代理(駐屯地:密雲)に派出され[8]、綏靖軍と治安総署の大規模な人事異動が実施された1943年(民国30年)1月まで在任している[9][注 5]。
1943年(民国32年)3月3日、田文炳は陳静斎の後任として河南省長代理に派出された[10][注 6]。4月には華北河渠建設委員会委員[11]、6月には河南省保安隊司令を兼務した[12]。ところが、前任の陳と比べると河南統治には苦しむこととなり(後述)、翌1944年(民国33年)6月13日に省長代理ほか各職を辞任している[13](省長代理の後任は邵文凱)。
漢奸裁判・晩年
汪兆銘政権崩壊後の1945年(民国34年)12月7日、田文炳は蔣介石国民政府により漢奸として逮捕された[3]。軍事委員会委員長北平行営主任・李宗仁が主宰する軍事法廷において他の22人の被告[注 7]と共に審理され[14]、田は懲役15年の判決を受けている[3][注 8]。
中国人民解放軍が北京に入城した後に釈放され、以後は北京で隠棲した。文化大革命が勃発すると故郷の新郷へと戻り、没年は不明だが後に病没したという[15]。
人物像と河南省政
田文炳の下で河南省公署宣伝処処長をつとめた邢漢三(邢幼傑)によれば[注 9]、田は敬虔なカトリック信者にして清廉潔白な人柄であり、職務執行においても金銭授受や縁故優遇を一切せず、日本軍も含めて誰もが認めるほどの精勤ぶりだったという。また、人事面でも公平度が高く実績・能力重視の運用に取り組んでおり、財政面では無駄な公費支出の削減に努めていた。
ところが河南省統治においては、その清廉潔白さがかえって混乱を招くことになった。当時の河南官界では日本軍との結びつきが強い東北(三省)出身者が強力な派閥を形成し、河南省行政から様々な利益を搾取していた[注 10]。この「東北派」とも言い得る官僚たちは、田文炳の人事や支出削減によって既得権益を侵害され、不満を露にしていく。また、田は日本軍に対しても、中国人への振舞いについて度々直言・苦言を呈し、日本軍の事業への支出削減にも取り組んだ。結果として、日本側の反発まで買うことになった。
最終的には、河南省政府秘書長・袁健侯、宣伝処処長・邢漢三ら少数の人物を除き、日本軍と結びついた省政府官吏の大部分が反・田文炳運動を展開している。これにより省政府機能はマヒ状態に陥ってしまった。そして、斉燮元の説得を受けたと推測される形で田は河南省長を辞任し、田を最後まで支えた袁と邢も後追いで退官した。
邢漢三は、田文炳の政治姿勢や心情を評価しつつも、前任の省長である蕭瑞臣や陳静斎と比べれば、河南省政を混乱させ、成すところが少なかった、と嘆じている。
なお、後任省長の邵文凱は東北出身であり、「東北派」官吏たちの意向が影響した可能性は相当に高かった。