西平郡・上庸郡一帯で数千家を配下に置いていた豪族。初めは張魯と、次いで曹操と通じ、曹操からは将軍号と上庸都尉の職務を与えられる。
建安24年(219年)、上庸太守の官にあったが、劉備配下の劉封・孟達の軍勢が迫るとこれに降伏。劉備からは上庸太守・員郷侯の位を留め置かれ、さらに征北将軍を加官される。
黄初元年(220年)[1]、孟達や申儀が魏に寝返り、劉封を敗走させる。魏は申儀に、申耽の地位を引き継がせた。後に申耽もまた魏に降り、懐集将軍の官を与えられると共に、南陽郡に移住することとなった。
申儀はその後、蜀漢に与した孟達の反乱阻止にも貢献するが、申耽のその後の動向は不明となっている。