畠山稙元

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生誕 不詳
死没 不詳
別名 通称:七郎[1]
 
畠山 稙元
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 通称:七郎[1]
官位 中務少輔上野介
幕府 室町幕府 申次衆御供衆
主君 足利義維義晴
氏族 畠山氏(入名字)[注釈 1]
父母 父:畠山順光、母:不詳
養父:畠山材堅
兄弟 稙元維広
不詳
昭清?
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畠山 稙元(はたけやま たねもと)は、戦国時代武将。中務少輔流畠山氏の当主。

畠山順光の息子として誕生[3]。生年は定かではないが、足利義稙の偏諱を受けていることから判断すると、兄弟の維広より年長だったとみられる[3]

永正15年(1518年)頃以降、義稙に仕えるようになったとみられる[3]。また、畠山材堅(中務少輔)の養子となった[3]

永正18年(1521年)3月、義稙が京都から出奔すると[4][5]、養父の材堅が京都に残った一方、稙元は順光と義稙に付き従っている[6]

大永7年(1527年)1月、順光が殺害されたのちも、稙元は足利義維(義稙の養子)に仕えている[6]

2月、義維・細川晴元方が足利義晴細川高国方を桂川の戦いで打ち破ると、その直後に入京した人物らの中に中務少輔稙元の名がみえる(『実隆公記』)[6]

享禄から天文年間にかけて、義晴と義維の兄弟の争いの中で、奉公衆の寝返りが双方の陣営でみられるようになった[6]。弟の維広が父と同じく義維に与したのに対し、稙元は天文年間に義晴の側についている[6]。これは、稙元が当時の情勢を判断した結果とみられる[6]

以降、稙元は義晴、ついで足利義輝に仕え、申次衆御供衆として活動した[7]。また、遅くとも天文8年(1539年)までに「上野介」を名乗っている[7] [注釈 2]

稙元の死後、息子とみられる畠山昭清(上野介)が継承し、足利義昭備後に動座した際にも付き従うなど、室町幕府の最末期まで忠節を尽くした[6]

脚注

参考文献

関連項目

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