畠山稙元
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畠山順光の息子として誕生[3]。生年は定かではないが、足利義稙の偏諱を受けていることから判断すると、兄弟の維広より年長だったとみられる[3]。
永正15年(1518年)頃以降、義稙に仕えるようになったとみられる[3]。また、畠山材堅(中務少輔)の養子となった[3]。
永正18年(1521年)3月、義稙が京都から出奔すると[4][5]、養父の材堅が京都に残った一方、稙元は順光と義稙に付き従っている[6]。
大永7年(1527年)1月、順光が殺害されたのちも、稙元は足利義維(義稙の養子)に仕えている[6]。
2月、義維・細川晴元方が足利義晴・細川高国方を桂川の戦いで打ち破ると、その直後に入京した人物らの中に中務少輔稙元の名がみえる(『実隆公記』)[6]。
享禄から天文年間にかけて、義晴と義維の兄弟の争いの中で、奉公衆の寝返りが双方の陣営でみられるようになった[6]。弟の維広が父と同じく義維に与したのに対し、稙元は天文年間に義晴の側についている[6]。これは、稙元が当時の情勢を判断した結果とみられる[6]。
以降、稙元は義晴、ついで足利義輝に仕え、申次衆・御供衆として活動した[7]。また、遅くとも天文8年(1539年)までに「上野介」を名乗っている[7] [注釈 2]。
稙元の死後、息子とみられる畠山昭清(上野介)が継承し、足利義昭が備後の鞆に動座した際にも付き従うなど、室町幕府の最末期まで忠節を尽くした[6]。