畠山維広

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生誕 不詳
死没 不詳
改名 菊(幼名)?→維光→維広→安枕斎守肱(法名[1]
 
畠山 維広
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 不詳
改名 菊(幼名)?→維光→維広→安枕斎守肱(法名[1]
別名 通称:与次郎[2]
官位 式部少輔
幕府 室町幕府 御供衆
主君 足利義維義栄
氏族 畠山氏(入名字)[注釈 1]
父母 父:畠山順光、母:不詳
兄弟 稙元維広
不詳
伊豆守、孫六郎
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畠山 維広(はたけやま つなひろ)は、戦国時代武将。式部少輔流畠山氏の当主。出家後の名は、安枕斎 守肱(あんちんさい しゅこう)[4]

畠山順光の息子として誕生[2]。生年は定かではないが、足利義維の偏諱を受けていることから判断すると、兄弟の稙元より若かったとみられる[2]

永正16年(1519年)、順光の使者を務めた「畠山菊」がおり、これが幼年時の維広だったとされる[2]

享禄4年(1531年)11月、播磨小寺氏に宛てられた義維御内書の副状を「与次郎維光」が発給しているが、通称と実名の一部が共通することから、これは維広の初名とみられる[2]。この頃、兄の植元が義維方から足利義晴方に離反していたため、維広が副状を出す立場となっていた[2]

天文元年(1532年)10月、義維がから淡路[5]、次いで阿波平島荘に下向すると[6]、維広もこれに従った[7]。なお、維広はこれ以降、式部少輔を名乗り、維光から維広に改名したとみられる[7]

天文11年(1542年)11月、維広の使者と九条稙通(義維に接近していた)の使者が共に、大坂本願寺法主の証如のもとに訪れている[7]。その後12月に義維と維広は証如の母である慶寿院鎮永尼から音信を受けている[7]

天文12年(1543年)4月、維広は証如や慶寿院に対し、義維が上洛するための支援を要請している[7]

天文16年(1547年)11月、義維は阿波から堺に渡海したものの、自身の不利を悟り、12月に阿波に戻った[7]。このとき、義維は証如に対し、阿波に下向する旨を伝える御内書を送り、維広も稙通と共に同様の書状を送ったため、証如も維広に返信している[7]

天文20年(1551年)11月、維広は堺の天王寺屋宗達のもとで、次いで12月には万代屋道安、茜屋宗佐のもとで、三好実休らと茶会に参加している[8][9]。このとき、維広は「安枕斎」と記されていることから、出家していたことがわかる[4]

天文21年(1552年)8月、実休が阿波守護の細川氏之(持隆)を殺害した[10]。実休は氏之を殺害したことで、守護家を上回る権威を持つ平島公方に接近し、その関係を重視したと考えられる[9]

弘治2年(1556年)4月、維広は宗達のもとで茶会に参加したが、12月に宗達が阿波の勝瑞を訪れると、実休が維広と宗達を茶会に招待した[4]

永禄8年(1565年)5月19日、足利義輝京都において、三好義継三好三人衆らによって殺害された(永禄の変[11][12]。そして、三好三人衆らが足利義栄(義維の嫡子)に接近すると、維広も活躍を見せるようになる[4]

永禄9年(1566年)4月、維広と三好長逸は公家の山科言継より、家領の山科郷の返還を申し入れられている[4]

8月、維広は松永久通竹内季治より伝えられた京都の法華宗寺院の寄宿免除について、義栄が渡海次第、調整にあたると返答した[4]

9月、義栄が義維と摂津越水城に入城すると、10月より将軍就任に向けた朝廷との交渉が始まった[4]。さらに、義栄が伊予河野通宣来島通康に上洛の支援を求めた御内書では[4][13]、維広が両方の御内書に副状を出している[4]

永禄10年(1567年)2月、義栄と畠山伊豆守が上賀茂社から音信を受けた[14]。この伊豆守は維広の息子であり、もう一人の息子である畠山孫六郎とともに、維広父子が義栄に仕えていたことがうかがえる[14]

10月21日、維広は伊豆守と共に上洛し、相国寺を宿所とした[14]。以後、維広らは京都において、義栄の将軍宣下を朝廷と交渉したほか、禁裏大工職相論への介入も始めた[14]。朝廷では、武家伝奏勧修寺尹豊晴右父子ら公家が対応した[14]。だが、大工職相論への介入は朝廷から退けられ[14]、将軍宣下も朝廷からの献金に応じられず拒否されるなど[15]、その交渉は難航した[14]

12月、維広の義兄(順光の猶子)である雲叔澄恵が維広の関与により、義栄の上意で諸山・十刹の住持に補任された[14]。このことから、維広が禅林に影響力を及ぼしていたことがうかがえる[14]

永禄11年(1568年)2月6日、義栄が朝廷に対し、将軍宣下のための費用を献上した[16][17]。だが、その中に悪銭が多く混じっていたことから、受け取りをめぐって騒動があった[14][17][18]。このとき、維広は延期を提案したが、朝廷の外記の強い主張により、納入を約束している[19]

2月8日、義栄が朝廷から征夷大将軍に任じられ、室町幕府の第14代将軍となった[17][20]。ここに、維広や義維らの悲願は達成されることなった[19]

2月13日、義栄は上洛することなく、朝廷からの宣旨を受け取った[17][21]。このとき、維広は義栄と宣旨を持参した山科言継との対面を差配した[19]。宴会の後、維広は伊豆守・孫六郎と共に、言継から御礼を受けた[19]

2月19日、義栄が同月26日に諸家に御礼に赴くために御供衆に参勤するように命じた際、その廻文に維広や伊豆守・孫六郎も名を連ねている[19]。だが、この御礼は行われなかったようである[19]

4月、篠原長房が三好長逸に対して、大覚寺門跡から申し入れられた所領の件について、維広に相談して義栄の意向を聞くように助言している[19]。だが、これを最後に、維広の史料上での記録は途絶えることになる[19]

以降、維広や伊豆守・孫六郎の動向は定かではない[22]。だが、同年9月に足利義昭を奉じた織田信長が上洛戦を開始すると[23]、10月に義栄は畿内を離れ、阿波の撫養で死去している[23][24]

脚注

参考文献

関連項目

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