畢諴

From Wikipedia, the free encyclopedia

畢 諴(ひつ かん、802年 - 864年)は、唐代官僚政治家は存之。本貫鄆州須昌県[1][2]

幼くして父を失い、貧しい生活の中で薪を燃やして読書した。成長すると、経書史書に広く通じ、歌詩を最も得意とした。その性格は誠実で古代の事物を好み、みだりに交遊しなかった。大和年間、畢諴は進士に及第し、さらに書判抜萃科に登第した。杜悰が忠武軍節度使となると、畢諴はその下で従事をつとめた。杜悰が判度支を領知すると、畢諴はその下で巡官となった。会昌元年(841年)、杜悰が淮南節度使となると、畢諴はまたこれに従った。杜悰が宰相として入朝すると、畢諴は監察御史となり、侍御史に転じた[3][2]

会昌5年(845年)、李徳裕が宰相として政権を握ると、杜悰は剣南東川節度使として出向された。杜悰の旧部下たちも餞別を避ける中、ひとり畢諴は遠慮なく送別した。李徳裕は怒り、畢諴は磁州刺史に出された。会昌6年(846年)、宣宗が即位すると、李徳裕は失脚し、前代に左遷された者はみな召還された。畢諴は入朝して戸部員外郎・分司東都となった。大中年間、駕部員外郎・倉部郎中を歴任した。当時、倉部と駕部の2曹は世族門閥の子弟から卑しまれており、着任を喜ばない者が多かったが、畢諴は平然として不満を述べなかった。職方郎中に転じ、侍御史・知御史台雑事を兼ねた。翰林学士・中書舎人に任じられ、刑部侍郎に転じた[3][2]

党項羌が反乱を起こし、河西を騒がせた。宣宗が翰林学士を召し出して西北辺の対策を諮問すると、畢諴はを撃破した古今の戦例を列挙して、宣宗を喜ばせた。この日のうちに畢諴は邠寧節度・河西供軍安撫等使に任じられた。着任すると、軍士を徴募し、屯田を開き、穀物30万石の年収を得て、度支銭数百万を節減した[3][4]。大中10年(856年)、検校工部尚書を加えられて、潞州に移駐し、昭義軍節度使をつとめた[5]。大中11年(857年)、太原尹・北都留守・河東節度使に転じた[6]。太原府は北方民族の地に近く、九姓タタルが反乱を起こしたが、畢諴は賞罰を明確にし、斥候を控えさせて、諸部を帰順させた[3][4]。大中13年(859年)、検校尚書左僕射を加えられ、汴州刺史・宣武軍節度・汴宋亳潁観察等使に転じた[7][3]。大中14年(860年)、入朝して戸部尚書・判度支となった。10月、礼部尚書同中書門下平章事(宰相)となった。咸通3年(862年)、中書侍郎となり、兵部尚書・集賢院大学士を兼ねた[8][9]

咸通4年(863年)4月、畢諴は宰相を退任し、兵部尚書となった[8][9]。本官のまま同平章事・河中節度使として出向した。12月23日(864年2月4日)、河中府で死去した。享年は62[8][4]

家族

  • 曾祖父:畢栩(酆王府司馬)
  • 祖父:畢凌(汾州長史)
  • 父:畢勻(協律郎)[10]
  • 子:畢紹顔
  • 子:畢知顔[8]

脚注

伝記資料

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI