東條一堂
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生涯
上総国埴生郡八幡原村(現在の千葉県茂原市)の富農の家の次男として生まれる[2]。9歳のとき火災に遭い、一家で江戸に移る[7]。
16歳のとき、儒者として政治に関わることを志し[8]、京都で皆川淇園に学んだ後、江戸で亀田鵬斎に学ぶ[2]。
27歳のとき、弘前藩主の津軽寧親に招かれ藩校「稽古館」の督学となるが、建白が受け入れられないのを不服として一年余で辞職[9][2]。江戸で私塾を開き、当初は駒込の吉祥寺そばで「蜾蠃窟」、39歳で湯島の昌平黌そばに移転、44歳で神田のお玉ヶ池そばに移転し「瑶池塾」とした[10]。瑶池塾の隣には千葉周作の「玄武館」があり、相互に親交した[11]。

玄武館および瑶池塾跡
塾が有名になるにつれ、各地の諸侯に招かれ進講するようになり、ペリー来航の際は阿部正弘に開港と海防を進言した[12]。
門人
親族
学風・著作
宋の新注と漢唐の古注どちらも批判検討した上で、焚書以前の原義に迫ろうとした[22]。これは「焚書以上学」と呼ばれ、伊藤仁斎らの「古学」や、師の淇園・鵬斎の学に近いが異なる[23]。
著作は百以上に及び、四書五経や『孝経』『荀子』『老子』『荘子』『列子』『国語』『世説新語』『宋名臣言行録』などへの注釈や考証、字書、日本語学書、詩文集、『学範』(学問の心得[25])『ヤマトゴコロ辨非』(大国隆正の大和心への批判[26])などがある[27]。書・書簡・建白書も現存する[28]。
一部著作が翻刻されており、上記『東條一堂著作集』や[29]、戦前の『日本名家四書註釈全書』『日本儒林叢書』などに収録されている。
