富士谷御杖
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| 人物情報 | |
|---|---|
| 生誕 |
明和5年(1768年) |
| 死没 |
文政6年12月16日(1824年1月16日) |
| 国籍 |
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| 配偶者 | 冨士野彦三郎養女 |
| 両親 | |
| 学問 | |
| 時代 | 江戸時代中期 |
| 学派 | 富士谷派 |
| 研究分野 | 国学 |
| 特筆すべき概念 | 言霊倒語論 |
| 主な業績 | 形而上学的な解釈学 |
| 主要な作品 |
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| 影響を受けた人物 | |
| 主な受賞歴 | 贈正五位 |
富士谷 御杖(ふじたに みつえ、明和5年〈1768年〉- 文政6年12月16日〈1824年1月16日〉)は、江戸時代中期から後期にかけての国学者。名は初め
業績
御杖は父の跡をついで国語学を修め、主として「てにをは」について詳細に研究した。その結果として言霊倒語論を提唱し、これに基づいて次々と新しい解釈を打ち出した。例えば歌論書『真言弁』は、思想と行為と和歌の関係について述べている[6][7]。また、『古事記灯』は本居宣長の「『古事記』は言霊の霊妙な力によって古代人の心を様々な説話として表現したものであるから、そこに記載されている事柄は実在する事実」という日本神話についての解釈を「不合理である」と批判したもので、『古事記伝』の批判書としては最も早いものである[8]。
このほかに「北邊随筆」という随筆も著している[9]。また、琴曲にもすぐれた。
しかし、御杖の学問は過剰なまでに人間の欲望にこだわるあまり、当代の人々と共有できる公共性を持ち合わせておらず、「難解で奇異な議論」として国学が隆盛した幕末期においても等閑視された[10]。こうして半ば忘れられた存在となっていたが、近代において土田杏村が高く評価して以降、改めて言説が注目されるようになっていった[11][12][13]。