盧損
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盧穎の子として生まれた。若くして学問して文章を作った。後梁の開平初年、進士に及第した。剛健正直な性格で、任賛・劉昌素・薛鈞・高総らと同期の進士であったが、互いに罵りあって、当時の人に「相罵榜」といわれた。尚書左丞の李琪に妹があって片方の目が小さく、長年婚期を逃していた。盧損は彼女を妻に迎えた。李琪が宰相となると、盧損は出仕して昇進した。貞明年間、右司員外郎に累進した[1]。
後唐の同光2年(924年)、盧損は崔貽孫・鄭韜光・李光序らとともに長定格・循資格・十道図の制定にあたった[2]。府州司戸参軍に左遷された[3]。天成元年(926年)、兵部郎中・史館修撰から諫議大夫に転じた。たびたび上書して時政を論じたが、修辞と論理が浅薄であったため、当時の名士に知られなかった。清泰元年(934年)、盧文紀が宰相となると、盧損はときの国政の議論に参与した[4]。清泰2年(935年)、御史中丞に任じられた[5]。清泰3年(936年)、右賛善大夫に転じた[6]。
後晋の天福2年(937年)、盧損は再び右散騎常侍となった[7]。のちに秘書監に転じて、官途の希望を失った。辞職を願い出て、戸部尚書として致仕し、潁川に隠居した。李鏻の道術を慕い、潁川が城市に近いことから、さらに陽翟に引きこもって林園のあいだを逍遥し、具茨山人を自称した。晚年には同輩たちと大隗山中に隠れ住んだ[4]。