盧質
From Wikipedia, the free encyclopedia
幼くして聡明で、文章を作るのを得意とした。16歳で陝虢節度使の王重盈の推薦により芮城県令に任じられ、父母に孝養を尽くした。さらに澄城県令となった。任期を満了して秘書郎に転じた。母が死去したため、盧質は河南府の郷里に帰って喪に服した[1][2]。
天祐3年(906年)、北方の太原府に赴き、李襲吉が河東節度使の李克用の幕府にいたことから、李襲吉の娘を妻に迎えた。李克用にその才能を見出され、検校兵部郎中となり、河東節度掌書記をつとめ、緋魚袋を賜った。天祐5年(908年)、李克用が死去すると、その弟の李克寧が兵権を掌握し、後を嗣ごうと望んだ。盧質は張承業らとひそかに謀って、李存勗を後嗣に立てた。晋王李存勗の四方への征討に、盧質はいずれも従軍した。天祐16年(919年)、河東節度判官・検校礼部尚書に転じた。天祐19年(922年)、李存勗が帝位につこうとすると、盧質は命を受けて大礼使となり、銀青光禄大夫・検校尚書右僕射を加えられた。天祐20年(923年)、行台礼部尚書に任じられた[3][2]。
同光元年(同年)、後唐の荘宗(李存勗)が即位すると、盧質は宰相として求められたが、高位につくのを望まず、固辞した。ほどなく本官のまま太原尹・北都留守を兼ねた。赴任しないまま、戸部尚書・知制誥に転じ、翰林学士承旨をつとめた。10月、荘宗に従って開封府に入ると、判租庸事をつとめた[4][2]。12月、荘宗に従って洛陽に都を定めると、知汴州軍州事とされた[5]。ときに孔謙が利権を握って、収奪しようとしていたため、盧質はこれを強く非難した。同光2年(924年)[6]、金紫光禄大夫・兵部尚書・知制誥・翰林学士承旨に転じ、論思匡佐功臣の号を賜った。同光3年(925年)[7]、覆試を主催し、「後従諫則聖」を賦題とした[4]。
天成元年(926年)、特進・検校司空・匡国軍節度使に任じられた。宰相の馮道に餞別の詩を贈られた。天成2年(927年)、耀忠匡定保節功臣の号を賜り、検校司徒を加えられた。天成3年(928年)、入朝して兵部尚書に任じられ、判太僕寺事をつとめた[4][2]。唐の哀帝に昭宣光烈孝皇帝と追諡し、景宗の廟号を贈るよう建議した。諡号については認められたが、廟号については認められなかった[2]。天成4年(929年)、開国公に進封された。長興2年(931年)4月、検校太保・河陽節度使に任じられた[8]。6月、横海軍節度使に転じた[9]。長興4年(933年)11月、入朝して尚書右僕射となった[10]。12月、涇王李従敏に代わって知河南府軍府事をつとめた。まもなく橋道頓遞使となった[11]。応順元年(934年)閏1月、検校太傅となり、河南尹を兼ねた[12]。清泰元年(同年)8月、太子少師になった[13]。清泰2年(935年)、再び尚書右僕射となった[14]。
後晋の天福元年(936年)、高祖石敬瑭が即位すると、盧質は病のため分司西都とされ、洛陽の邸宅に隠居した。天福7年(942年)、少帝が即位すると、盧質は太子太保に任じられた。10月27日、洛陽で死去した。享年は76。太子太師の位を追贈された。諡は文忠といった[4][15]。