柳川組初代組長・柳川次郎が柳川組を正式に発足させる以前からの幹部級で、1964年に谷川康太郎が二代目組長に就任すると、谷川の舎弟に直った。 逮捕・勾留された柳川初代と谷川二代目が1969年4月に三代目山口組組長・田岡一雄に無断で柳川組を解散させると、同年7月、野澤組組長・野澤儀太郎、金田組組長・金田三俊、藤原組組長・藤原定太郎とともに、石田組組長(のちに章友会に改称)として[1]、三代目山口組直参に昇格した。
1984年における四代目山口組の発足に伴い舎弟に直り、1989年、五代目山口組発足に伴い舎弟頭補佐に就任して執行部入りした。2005年には六代目山口組の発足に伴い同組顧問に就任。
2016年3月の六代目山口組定例会に、司忍六代目らを激励するため病身をおして出席[1]。
2016年10月23日、病死、83歳没[5][1]。当時の山口組の体制の中では最古参[1]で最高齢となっていた[5]。病状はよくなったり、悪くなったりを繰り返していた[1]。山口組が分裂しているなか、最後まで元気な姿をみんなに見せようとしていた[1]。神戸市北区の葬儀場で、25日夕の通夜に司忍六代目ほか多数の直系組長が参加、26日に告別式が営まれた[2]。