橋本弘文
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来歴
渡世入り〜山健組時代
1947年(昭和22年)に生まれる。16歳で大阪市の独立組織である南一家吉田組に加入し、ヤクザとなる。しかし吉田組は程なくして解散し、橋本は自ら橋本組を結成する。
1976年(昭和51年)に29歳で三代目山口組傘下山健組組長である山本健一から盃を受け、山健組の直参となる。1983年(昭和58年)に、橋本組を極心連合会に改称し、直後に勃発した山一抗争では武闘派として一和会系組織を攻撃するなど次第に頭角を現した。1987年(昭和62年)に二代目山健組若頭代行に就任する。
1989年(平成元年)に五代目山口組が発足すると、桑田兼吉が山健組の三代目組長となり、橋本は三代目山健組若頭に就任した。1997年(平成9年)12月、桑田が銃刀法違反(共同所持)容疑で逮捕・起訴され、長期に渡り勾留される。2003年(平成15年)5月、最高裁が桑田の上告を棄却し懲役7年の実刑判決が確定すると、橋本は組長代行に就任し、7,000人の人員を擁するといわれた山健組を切り盛りした。
山口組直参時代
2005年(平成17年)4月、内部昇格で五代目山口組の直参となり[4]、6月には若頭補佐(=最高幹部の一員)に抜擢された。同年8月に山口組が六代目体制に移行した後も、橋本は継続して若頭補佐を務め、芳菱会会長の瀧澤孝が顧問に退いた2008年(平成20年)11月以降は筆頭若頭補佐として山口組の中枢を担った。
2012年(平成24年)4月、新設された統括委員長に就任した。これは当時、恐喝罪に問われていた山口組若頭・髙山清司の収監を見越したもので、実質的な若頭代行として髙山に代わり山口組の実務面の最高責任者となった。