石重信

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石 重信(せき ちょうしん、918年 - 937年)は、後晋の高祖石敬瑭の次男。は守孚[1][2]。母は後唐の明宗李嗣源の三女の永寧公主[2]

若くして聡明で、知恵があった。後唐天成年間、銀青光禄大夫・検校左散騎常侍に任じられた。まもなく検校刑部尚書を加えられ、相州長史をつとめた。ほどなく金紫光禄大夫に転じ、検校司徒に任じられ、左金吾衛大将軍をつとめた。重信は後唐の明宗閔帝末帝に歴仕し、貴族であることを恃まず、自分を抑えて礼儀正しく誠実な態度を取ったので、当時の世論に称賛された[3]

後晋の天福2年(937年)2月、重信は左驍衞上将軍から検校太保・河陽三城節度使となり[4]、孟津に赴任した、民の弊害十数事を除いて、朝廷に褒賞を受けた。6月、范延光で反乱を起こすと、前霊武節度使の張従賓が河橋に駐屯する兵数千人を発して、范延光を討つことになった。張従賓は范延光の誘いを受けて反乱に加担し、重信は治所で殺害された。享年は20。太尉の位を追贈された。10月、河南万安山に葬られた。天福7年(942年)1月、太師の位を加贈され、沂王に追封された。天福8年(943年)5月、楚王に改封された[5][6]

重信の妃の南陽白氏は、昭信軍節度使の白奉進の娘であった。重信には男子2人があったが、いずれも幼く、公宮で成長し、少帝とともに北方に移され、その後半生は知られていない[5]

脚注

伝記資料

参考文献

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