白奉進
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白達子の子として生まれた。若くして騎射を得意とした、李克用が河東節度使となると、奉進は軍門で面会して仕官を求め、その麾下に入れられた。晋王李存勗が夾寨を攻め落とすにあたって、奉進は率先して梁軍と戦い、李存勗にその勇壮ぶりを認められた。のちに山東・黄河に従軍して、功績を重ねて龍武軍指揮使に転じた[1]。
後唐の同光3年(925年)、魏王李継岌が前蜀を討つと、奉進は侍衛親軍指揮使に抜擢された。天成から長興年間にかけて、上軍を統率し、検校右散騎常侍を加えられた。応順元年(934年)、奉聖軍右廂都指揮使・検校刑部尚書に転じ、忠順保義功臣の号を賜り、封州刺史を遥領した。清泰2年(935年)、検校尚書右僕射・唐州刺史に任じられ、統治の成績を挙げた[2]。
後晋の天福元年(936年)、高祖石敬瑭が即位すると、奉進は宮中に召し出されて赴き、検校司徒を加えられ、護聖軍左廂都指揮使をつとめ、歙州刺史を遥領した。奉進は娘を皇子石重信にとつがせ、そのため石敬瑭にいつくしまれた。天福2年(937年)、護聖軍右廂都指揮使に転じた。5月、昭信軍節度使となり、侍衛親軍馬軍都指揮使をつとめた。6月、范延光が興唐府に拠って反乱を起こすと、奉進は勅命を受けて騎兵3000を率い滑州に駐屯した。7月、義成軍節度使の符彦饒の許可を得ず、反乱者を斬ったため、符彦饒の麾下の軍士の怒りを買い、捕らえられて殺害された。太傅の位を追贈された[3]。