碓井哲雄
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『箱根駅伝』解説
東京都中央区出身。東京・東日本橋の、祖母が経営する料亭で中高時代を過ごした。東京都中央区立久松中学校(現:東京都中央区立日本橋中学校)[6])1年から陸上を始め校内マラソンで優勝。陸上部へ誘われ、隅田川にかかる新大橋と両国橋を巡って健脚を鍛えた。中央大学杉並高等学校(現:中央大学附属高等学校)入学後、1958年の第9回全国高等学校駅伝競走大会(2年時)では4区の区間賞を獲得した[7][8]。
1960年、高等学校を卒業して東急電鉄に入社した。1961年、社会人のまま中央大学経済学部に入学し、同年の日本陸上競技選手権大会の5000mと10000mで2位となる。
1962年に東急電鉄を退社して、正式に中央大学陸上部に入部した。
中央大学在学中、3度東京箱根間往復大学駅伝競走に出場し最多記録6連覇達成に2度貢献した。箱根駅伝は2年(1963年大会)10区3位、3年(1964年大会)2区3位の好成績を収めた。主将だった4年(1965年大会)も2区2位と好走したが、日本大学に7連覇を阻止された[9]。
1966年、中央大学経済学部を卒業する[10]。
卒業後は名古屋鉄道に進んだ後、28歳で現役を引退した。その後、ビジネスマンを経て、1981年から1994年まで中央大学陸上競技部コーチを務め、1983年には本田技研工業(現:Honda陸上競技部)総監督を兼任した[11]。1993年、東日本実業団対抗駅伝競走大会2連覇などを達成した[12]。1986年アジア競技大会1500m金メダリスト大志田秀次、1992年バルセロナオリンピック日本代表浦田春生らを育てた[7]。
1996年、箱根駅伝での中大復活優勝の礎を築いた[13]。日本代表のコーチとして1992年バルセロナオリンピック、1990年アジア競技大会(北京市)、1994年アジア競技大会(広島市)に参加した[14]。
日本テレビ系列で毎年放送される『新春スポーツスペシャル箱根駅伝』では、1995年(第71回)から1号車解説、2004年の第80回大会からは日本テレビ放送センターの解説を務めた。その後2021年の第97回大会まで実に27年間にわたって出演したが、直後に体調を崩し入院。そして最後の解説から8ヶ月後の同年9月11日、心不全のため死去した。79歳没[15][16][17] 。翌2022年の第98回大会では、第1区で碓井の後輩である吉居大和(当時2年生)が1時間00分40秒の区間新記録を樹立し、中継のなかでも1号車実況の蛯原哲や碓井の「後任」として放送センターの解説を務めた瀬古利彦らが碓井について触れる場面があった[18]。