布上正之
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大学時代
2年時の第30回箱根駅伝では9区を走る。2位の早稲田大学とは13秒差と首位で襷を受け、少しずつ差を離していたが、中継所から約300mにある戸塚踏切の警報器が鳴り始め、布上が通る直前に遮断機が降り始める。すると、遮断機をくぐるのにロスタイムがあってはいけないと、ムキになって駆け抜けた。しかし、このペースアップの影響で後半に失速し、早稲田大学に抜かれ、2位に後退。10区でも日本大学に抜かれて順位を一つ落とし、中央大学は総合優勝を逃した[2][3]。この失敗が布上の選手、そして指導者としての原点になっているという[4]。
3年時の第31回箱根駅伝では7区を走り、昨年をリベンジを果たす区間賞を獲得。2年ぶりの総合優勝に貢献した[5][6][7]。
4年時の第32回箱根駅伝では10区に出走。大会記録ペースの首位で襷を受けたが、前半のオーバーペースが祟り、八ツ山橋を過ぎたあたりからやや失速し始める。それでも大量のリードに守られ、2年連続の総合優勝のテープを切った[8][9]。
大学卒業後
リッカーミシンに入社した。入社1年目の1956年に行われた第40回日本選手権では、3000m障害で9連覇中だった高橋進を抑えて初優勝[10]。同年、9分04秒2の日本記録を樹立した。また、1957年には10000mで、村社講平の持つ日本記録を21年ぶりに更新する30分22秒0の日本新記録を樹立した。
全日本実業団駅伝には4度出場。第2回大会と第5回大会では区間賞を獲得し、優勝に貢献した。
1962年に現役を引退し、1965年から1975年までリッカーミシンの監督を務めた。1989年からは丸井今井、1992年からはホクレンの監督を務め、2000年からはホクレンの総監督に就任し、2003年に退任した[11]。