磯村芳幸

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死没 (2009-08-21) 2009年8月21日(53歳没)
身長 173 cm (5 ft 8 in)
体重 75 kg (165 lb)
磯村 芳幸
Yoshiyuki ISOMURA
基本情報
生誕 1955年9月6日
死没 (2009-08-21) 2009年8月21日(53歳没)
身長 173 cm (5 ft 8 in)
体重 75 kg (165 lb)
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県
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磯村 芳幸(いそむら よしゆき、1955年9月6日 - 2009年8月21日)は愛知県出身のプロゴルファー

大府高校卒業後の1979年にプロとなり[1]1980年日本プロでは2日目に尾崎健夫と共に首位と1打差の3位に着けた[2]

1981年和歌山オープンでは最終日の8番までプロデビュー戦の倉本昌弘に3打差を付けて首位であったが[3]、9番で第2打をピン2mに付けた倉本にイーグルを奪われて一気に差を縮められると[3] [4]、10、11番でも連続バーディを決めて逆転される[3]

1985年にはデサント大阪オープン寺元明男と並んでの5位タイ[5]に入り、1986年には関西オープンで最終日の最終ホールをバーディーで飾り、市川良翁吉川一雄前田新作井上久雄杉原輝雄金山和雄甲斐俊光を抑えて初優勝[6] [7]日本オープンでは中嶋常幸青木功尾崎将司に次ぐと同時に尾崎健と並んでの4位タイ[8] [9]に入った。

1987年ポカリスエットオープンで逃げ切りを図るも吉村金八に捕らえられてプレーオフに突入し、磯村は1ホール目18番ミドルホールでボギーを叩き、パーの吉村の逆転優勝を許す2位に終わる[10]ミズノオープンでは須貝昇山本善隆・倉本と並んでの5位タイ[11] [12]広島オープンでは中村忠夫呂良煥中華民国)と並んでの2位タイ[13]、デサント大阪オープンでは最終日に69をマークして中川敏明と並んでの2位タイ[14]、倉本が24アンダーの日本新記録を達成して優勝したマルマンオープンでは尾崎直道と並んでの4位タイ[15] [16]に入った。

1988年日経カップ 中村寅吉メモリアル新関善美と並んでの4位タイ[17]全日空オープンでは真板潔東聡と並んでの9位タイ[18]ブリヂストンオープン長谷川勝治・山本・河野和重謝玉樹(中華民国)と並んでの8位タイ[19]に入る。VISA太平洋マスターズでは2日目には通算6アンダーとスコアを伸ばして[20]単独で首位に躍り出ると、セベ・バレステロススペイン)の3位タイ[21] [22]に入った。

1989年にはテーラーメイド瀬戸内海オープンでは泉川ピートと並んでの7位タイ[23]、ポカリスエットオープンでは新関、ウェイン・スミス(オーストラリア)、甲斐・上野忠美と並んでの8位タイ[24]ブリヂストン阿蘇オープンでは3日間通算11アンダーで首位に立って[25]クレイグ・パリー(オーストラリア)の2位[26]フジサンケイクラシックでは鷹巣南雄・尾崎直・陳志忠(中華民国)と並んでの6位タイ[27]関西プロでは上西博昭・杉原・高崎龍雄と並んでの6位タイ[28]、日経カップ 中村寅吉メモリアル4位タイ[29]、関西オープンでは木村政信・井上と並んでの8位タイ[30]に入った。同年には新関と共にワールドカップ日本代表に選出されたが、団体16位に終わる。

1990年にはツアー開幕前に最後の開催となったくずは国際[31]で初日を板井榮一杉原輝雄と共に66をマークして首位タイ[32]でスタートし、最終日には68をマークして加瀬秀樹・甲斐と並んでの4位タイ[33]に入った。

1990年は関西オープン7位[34]、VISA太平洋マスターズではホセ・マリア・オラサバル(スペイン)の5位[35]に入る。

1991年は第一不動産カップで尾崎将と並んでの5位タイ[36]ダイドードリンコ静岡オープンでは友利勝良山本洋一と並んで10位タイ[37]フィランスロピータケダカップ3位[38]に入った。

1992年ダンロップオープン8位タイ[39]・日経カップ 中村寅吉メモリアル7位タイ[40]に入り、1993年には後楽園カップでプレーオフを制して2勝目を挙げるが[41]1994年の日経カップ 中村寅吉メモリアル[42]を最後にレギュラーツアーから引退。

2009年8月21日午後1時22分、腎臓がんのため名古屋市昭和区の病院で死去。53歳没[1]

主な優勝

脚注

外部リンク

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