磯部町 (常陸太田市)
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歴史
磯部町では、縄文時代の峰遺跡や峯山・磯部古墳群が見つかっている[5]。
文献記録では、鎌倉時代の『弘安田文』に「磯部十六丁三段大」と書かれ、常陸国佐都西郡(さとさいぐん)に属していた[6]。佐都西郡は平安時代末期には佐竹氏の本貫であり、鎌倉時代末期に臨川寺に寄進された「佐都荘」の荘域内だったと考えられている[7]。ほかにも明応3年(1494年)頃の筆と思われる『当乱相違地注文写』に「いそへくるま方」[5]、「礒辺乃内とうさい寺方 同違乱」[6]などとあり、佐竹の乱の折に小野崎氏や江戸氏に押領されていた[5]。文禄3年(1594年)の太閤検地により佐都西郡が久慈郡に組み入れられた[7]ため、磯部も久慈郡となった[5]。
江戸時代には常陸国久慈郡大里組に属しており、磯部村(礒部村)と称した。慶長14年(1609年)を境に、佐竹氏から水戸藩へ支配者が変わった[5]。村高は寛永12年(1635年)の『水戸領郷高帳』に1,031石余、『元禄郷帳』に956石余などとある[5]。『国用秘録』には、肥沃な土地であると記され、天保13年(1842年)の検地の記録によれば、田畑は101町余で分米は34石余、新田畑は4反余で分米は1石余だったという[6]。
明治時代になると、町村制の施行により近隣3村と合併し、久慈郡佐竹村の大字となった。村役場は磯部に置かれた[8]。佐竹村は昭和の大合併において、太田町ほか5村と合併して常陸太田市となり、磯部町という町名となった。市制施行後は、住宅地化が進み[4]、1960年(昭和35年)4月6日に市立峰山中学校が現在地に移転した[9]。
沿革
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、久慈郡磯部村が天神林村・稲木村・谷河原村と合併し佐竹村が発足。磯部村は佐竹村大字磯部となる。
- 1954年(昭和29年)7月15日 - 佐竹村が佐都村・誉田村・機初村・西小沢村・幸久村とともに太田町に編入、太田町が即日市制施行し常陸太田市へ移行。佐竹村は廃止となる。佐竹村大字磯部は常陸太田市磯部町となる。
地名の由来
『水府志料』によると、往古は「五十騎」(いそめ)、「箕山」と称した[5]。
人口の変遷
| 1764年(明和元年)[6] | |
| 1805年(文化 2年)[6] | ?人 |
| 1891年(明治24年)[7] | |
| 1980年(昭和55年)[4] | |
| 2011年(平成23年)[10] | |
| 2017年(平成29年)[1] |
小・中学校の学区
交通
施設
- 常陸太田市立峰山中学校
- 佐竹郵便局
- 常陸大理石株式会社本社
- 県北自動車整備車検株式会社
史跡
- 熊野鹿島神社(五十部神社) - 峯山にある神社。旧村社。神体は幣、祭神は伊弉諾命・武甕槌命[6]。小字腰巻と箕山(みやま)から各25人ずつが集まって創建したことから、五十部(いそべ)神社と名付けられたという[6]。徳川秀忠より社領6石を与えられた[6]。
- 宝来山宝光寺宝寿院 - 長享3年(1489年)開基の真言宗寺院。天保14年(1843年)廃寺[6]。門徒が5寺あったが、磯部村にあった3寺は寛文6年(1666年)に還俗処分を受けた[6]。
- 鶴堤地蔵堂(つるさげじぞうどう) - 空海(弘法大師)が弘仁年間(810年 - 824年)にこの地に宿泊した翌朝、天竺から飛来した化石を見つけ、延命地蔵を彫り堂を建てた、という伝説がある[13]。西山荘に隠居していた徳川光圀は、よく磯部村で鷹狩りを楽しんでおり、由緒あるこの地蔵を水戸に持ち帰った[14]。しかし、地蔵が「磯部恋し」と呟き始めたことから磯部村に戻し[15]、地蔵に三つ葉葵の入った金色の袈裟を献上したとされる[16]。家内安全・延命息災・子安地蔵として信仰を集め、2月24日と8月24日に上宿・中宿・下宿でそれぞれ「オセンダンゴ」と呼ばれる千個の団子を作って供える会式を行う[17]。