織田信雄の家臣。林姓であるが、尾張林氏との関連は不明。
永禄12年(1569年)、大河内城の戦いで北畠具教と織田信長が和睦し、その条件として信雄が具教の養子となり、大河内城に入った。この時、正武は織田忠寛らとともに信雄に付けられ、大河内城に入城した[1]。
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いの結果、織田信孝が自刃し、信孝の領土が信雄や織田信包に分配された。この時、正武は信雄の領土となった北伊勢の奉行として派遣された[1]。同年夏、神戸城を手に入れるため、兵500を引き連れ、信孝の異父同母兄であった小島兵部少輔が籠る神戸城を攻撃した。しかし、長尾一勝が林勢の攻撃を防ぎ、敗走させるなどしたため、神戸城を攻め落とすことができなかった。その後、兵部少輔と正武の間で和睦が成立し、正武が神戸城主となった[1]。
その後、沢城で隠居していた元神戸城主の神戸具盛は神戸城主となった正武の嫡子・十蔵に信孝の室であった具盛の娘を嫁がせ、神戸氏を継承させた[1]。また、正武は神戸城を手に入れた後、神戸領を拝領に対する豊臣秀吉の恩に喜び、秀吉に子の林松千代を人質として差し出した[1]。
天正12年(1584年)、秀吉に人質として差し出していた松千代が返還された。同年3月からの小牧・長久手の戦いでは、信雄側として参戦した。同年3月、正武は神戸城から豊臣方の関盛信・一政親子の居城亀山城に向け、兵500を引き連れて出陣した。その時、一政が亀山城の軍勢を率いて出陣していたため、城には盛信含め20余人しか手勢がいなかった、しかし、盛信は正武勢に対しで、城下に火を放ち、ゲリラ戦を行うことで、撃退した[1]。その後、豊臣方の蒲生氏郷の軍勢が関親子の軍勢と合流し、信雄方の佐久間信栄が守っていた峯城を攻め落とした。これを受け、正武は神戸城から落ち延びた。その後、正武は子の林十蔵・林松千代や北伊勢の豪族千種三郎左衛門尉、楠木正盛、濱田与右衛門尉、小泉甚六、小坂孫十郎、峯与八郎らとともに、加賀野井城の加賀井重宗・重望への援軍として出陣し、加賀野井城に籠城した。 豊臣勢に加賀野井城を囲まれると、籠城勢は加賀野井城での籠城は不利だと悟り、豊臣勢に降伏を申し出た。しかし、この降伏は拒否された。そこで、籠城勢は城の大手口側に夜襲を仕掛けて敵勢をひきつけ、搦手口から逃走することにした。重宗・重望親子や正武は撤退に成功したが、嫡子の十蔵や峯与八郎、千種三郎左衛門尉らが討ち死にし、息子の林松千代や楠木正盛は捕縛され、処刑された[1]。その後、信雄・徳川勢が豊臣方の滝川一益が籠っていた蟹江城を落すと、信雄は正武に蟹江城を与えた[1]。
その後の動向は不明。