神隠丸山遺跡
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平安時代の遺構
縄文時代の遺構
下層からは縄文時代の竪穴建物が142軒検出された。縄文前期(黒浜式期)の2軒を除くと中期(勝坂式~加曽利E2式期)95軒、後期(堀ノ内式~安行Ⅰ式期)45軒を数える。中期と後期の集落は、それぞれ広場(土坑墓群)を中心に掘立柱建物群と竪穴建物群が同心円状に展開する大規模な環状集落で、時期の異なる環状集落が隣接して形成されるいわゆる「双環状集落」の様相を呈していた[4]。
核家屋
双環状集落内の後期の集落では、内部におびただしい数のピット(柱穴)が重複して検出されることから同一地点で長期間の建て直しを繰り返して存続したと考えられる大型建物跡が発見された。この種の大型建物は、考古学研究者の石井寛により「核家屋(かくかおく)」と呼称されており[5]、都筑区内の同時期(縄文後期)の集落遺跡では、港北ニュータウン地域西側に位置する三の丸遺跡や小丸遺跡・華蔵台遺跡でも見つかっている。これらの遺跡では、核家屋は集落の「要」となる台地の付け根付近に建てられ、建物前面に墓域が広がることから、集落内で墓前祭祀などを司る特殊な存在=村の長(オサ)的な地位にある人物の住居であった可能性が指摘されている[6]。ただし神隠丸山遺跡の核家屋は、華蔵台遺跡などの諸例と異なり台地の付け根ではなく斜面際に立地していることが例外的とされる。またこの地域では唯一、核家屋において住居内貝層が検出された[2][7]。港北ニュータウン地域東側では数少ない縄文時代後期の集落であったが、華蔵台遺跡ほどは存続せず、後期後半には終焉を迎えた[7]。