秋沢修二
From Wikipedia, the free encyclopedia
静岡県沼津市の鼈甲商の長男に生まれた。沼津市立沼津尋常高等小学校(現・沼津市立第一小学校)卒。静岡県立沼津中学校(第24期、現・静岡県立沼津東高等学校)を4年生で中退。中学卒業検定試験に合格し、専門学校入学資格(専検)を取得。1928年早稲田大学高等学院文科に入学。早稲田では新稲会に所属。1930年早稲田大学文学部哲学科に進んだが、同年8月学資納入が困難なため中退[3]。
1930年2月頃にプロレタリア科学研究所(プロ科)所員となり、哲学部門の唯物弁証法研究会に所属。その責任者であった三木清の門下となる[3]。服部之総や加藤正らの三木批判に対し、三木清・山崎謙・秋沢修二「唯物論は如何にして観念化されたか」(『思想』第97号、1930年6月)を発表して三木を擁護したが、のちに秋沢修二「認識論におけるレーニンの弁証法」(『プロレタリア科学』1930年9月号)を発表して自己批判した[4]。三木哲学批判後、川内唯彦、永田広志らと同研究会の再建活動に従事[5]。1931年4月、川内唯彦、秋田雨雀、佐野袈裟美、真渓蒼空朗らとともに反宗教闘争同盟準備会(のち日本戦闘的無神論者同盟)を結成し準備委員[6]。同年に日本共産青年同盟(共青)に加盟[5]、さらに同年12月に日本共産党に入党[2]。1932年7月にプロ科関係者として[7]治安維持法違反で検挙され、1934年8月まで豊多摩刑務所に収監[2]。
1934年に出所後は唯物論研究会(唯研)に参加し、哲学、宗教、歴史の各部会で活動[5]。在日ソ連大使館に日本語教師兼翻訳員として勤務したが、1936年に2・26事件の「ソ連大使館事件」で検挙され、転向を条件に起訴猶予処分となった[2]。以降、「全体主義の合理的改造」(『政界往来』1939年7月号)など国策に迎合する論文を発表したり[2]、オトマール・シュパンの全体主義理論を紹介したりするなどの文筆活動を行った[5]。転向者の「思想善導」にあたった国民思想研究所に関係した[2]。在日ドイツ大使館にも勤務した[1]。1940年、岩崎昶、高沖陽造、本田喜代治、甘粕石介らとともに唯研事件(第二次検挙)で再検挙[5]。
敗戦後の1945年9月日本文化人連盟の発起人会を結成、同年10月同連盟常任理事。1946年2月民主人民連盟評議員[3]。1952年静岡県立静岡法経短期大学(のち静岡大学法経短期大学部)講師、1955年教授[2]。1974年静岡大学を退官、非常勤講師[1]。戦後は講座派を離れ、日本社会党に参加[7]。1956年社会主義協会に参加[2]。1961年社会主義協会本部参与、のち顧問[1]。1967年の向坂派分裂後は太田派協会顧問[2]。