『日本書紀』百済系史料に記される斯那奴氏(科野氏)の活動は以下である。
- 1.
百濟遺灼莫古將軍・日本斯那奴阿比多,副高麗使安定等,來朝結好。 — 日本書紀、巻第十七
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- 2.
遣使詔于百濟〈百濟本記云。三月十二日辛酉。日本使人阿比多率三舟來至都下。〉曰。 — 日本書紀、巻第十九
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- 3.
在百濟日本王人方欲還之。〈百濟本記云。四月一日庚辰。日本阿比多還也。〉 — 日本書紀、巻第十九
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1.では百済と継体天皇の外交において、百済使者「日本斯那奴阿比多」が現れるが、斯那奴阿比多の動向について、欽明天皇十一年に倭国が派遣した外交使節とみる見解があるが、そう単純ではなく、何故ならば、1.と2.の間にあたる期間に斯那奴氏(科野氏)が倭系百済官僚として現れるためである。
百濟遣施徳馬武。施徳高分屋。施徳斯那奴次酒等。使于任那。謂日本府與任那旱岐等曰。我遣紀臣奈率彌麻沙。奈率己連。物部連奈率用歌多。朝謁天皇。彌麻沙等還自日本。 — 日本書紀、巻第十九
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官位「施徳」を有する斯那奴次酒がみえるが、斯那奴氏(科野氏)は、『日本書紀』に他に現れない信濃豪族であり、ヤマト王権において活発に活動していたわけではなく、それを考慮すると斯那奴阿比多、斯那奴次酒、科野新羅は近しい関係にある可能がある。すなわち、斯那奴阿比多、斯那奴次酒、科野新羅の関係であるが、倭国における有力豪族とは言い難い斯那奴氏(科野氏)という共通性からすれば無関係とは考え難く、斯那奴阿比多の活動は継体天皇十年から欽明天皇十一年、斯那奴次酒の活動は欽明天皇五年から欽明天皇十五年、科野新羅の活動は欽明天皇十四年であり、斯那奴阿比多は一世代前から活動を始めていることになるため、斯那奴阿比多が父、斯那奴次酒・科野新羅が兄弟の可能性がある。