倭国

古代日本に存在した政治勢力 From Wikipedia, the free encyclopedia

倭国(わこく)とは、古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時中国の南東にあった政治勢力国家を指して用いた呼称。7世紀後半に倭国と呼ばれていたヤマト王権は対外的な国号を日本に改めた。

歴史

倭の小国たちと倭国の成立(前漢・後漢)

倭ないし倭人が中国の正史に初めて登場するのは前漢の歴史を記した『漢書』地理志である[1][注釈 1]。そこでは「楽浪海中に倭人あり、分れて百余国をなす。歳時を以て来りて献見すと云う。」と描写されており[3]、楽浪郡の設置を機に倭人の所在が知られるようになったと考えられる[4]。楽浪郡の設置(紀元前108年)から前漢の滅亡(8年)は日本列島の弥生時代中期後半(弥生Ⅳ期)にあたるが、この時期は大規模な中心集落とその衛星集落の分化が進行し[5]、社会の成層化が始まるなかで上位層に「系譜意識」が深まってくる時期であるとされる[6]福岡県糸島市三雲南小路遺跡、同春日市須玖岡本遺跡でいわゆる王墓が登場しており、集団の中から王墓に埋葬されるような有力者が「選出」されるような状況が想定される[6]。このような状況の中で西日本諸地域のクニグニの王たちが自らの権力・権威の裏付けとして前漢王朝の承認を得ようとして朝貢がおこなわれたと考えられる[7]

『漢書』王莽伝には「東夷の王、大海を度(わた)りて国珍を奉ず」という文章があり、貨泉の出土からも倭(日本列島)を指している可能性もあるが、断定できない[8]

後漢書』東夷伝には以下の記述がある[注釈 2]

建武中元二年(57年)、奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり、光武、賜うに印綬を以てす[9]
『後漢書』東夷伝

このとき奴国王[注釈 3]が受け取ったのが志賀島で出土した漢委奴国王印であると考えられている[9]

奴国王の遣使から50年後の107年には以下の記述がある[注釈 4]

安帝永初元年(107年)倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う[11]
『後漢書』東夷伝

この時の朝貢は「倭国」成立の挨拶のためのものであったという説がある[12][注釈 5]178年ごろ[14]と想定されるいわゆる「倭国大乱」の記事に「とどまること七、八十年、倭国乱る」とあることから、107年ごろに倭国が成立して70-80年継続した後に倭国が乱れたと解釈するのが自然である[15]

倭国乱(後漢)

上述の、倭国が乱れたという記述が『後漢書』、『三国志』などにみえる。

の間、倭国大いに乱れ、更(こも)ごも相(たが)いに功伐し、年を歴るもの主なし。一女子あり、名づけて卑弥呼と言う。年長ずるも嫁せず、鬼神の道を事とし、よく妖をもって衆を惑わす。ここにおいてともに立てて王となす[16]
『後漢書』倭伝
その国、本また男子を以て王となし、住(とど)まること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王となす。名は卑弥呼という[17]
『魏志』倭人伝

倭国乱の時期については『後漢書』や『隋書』東夷伝で桓帝と霊帝の間(147年-189年)とされ、『梁書』東夷伝、『北史』東夷伝で「霊帝の光和中」(178年-184年)の出来事とされている[18]。この時期、後漢では先零羌の反乱(107年)をはじめ、羌・高句麗鮮卑などの諸部族の反乱・入寇が頻発し、中国王朝の権威が崩壊しつつあった[19]。この東アジア全体の状況と連関して倭国でも争乱が起こったとみられる[20]東大寺山古墳出土の金象嵌鉄刀の銘文は「中平□□ 五月丙午 造作□□ 百練清剛 上応星宿 □□□□」とあり、卑弥呼が王となった時に後漢の皇帝から賜った刀である可能性がある[21]

後漢が事実上崩壊した後の204年ごろ、遼東公孫康によって帯方郡が設置されると、『三国志』魏書韓伝に「是より後、倭・韓ついに帯方に属す[22]」という記述が現れる[23]。これは倭と韓が公孫氏政権に服属した記事とも[24]、倭や韓の管轄が帯方郡の所属になったという記事とも解釈される[22]。この公孫氏政権が238年司馬懿率いる魏軍によって滅ぼされたことで、翌年6月に卑弥呼による魏への使者が初めて派遣される[24]

卑弥呼・台与の時代(魏・晋)

『魏志倭人伝』には卑弥呼が景初2年(238年)[25]あるいは3年(239年)に朝貢した際の詔書が収録されており、不正確な記述も多い『魏志倭人伝』のなかできわめて原文に近い貴重な史料とされる[26]

親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守、劉夏、使を遣わして汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布[注釈 6]二匹二丈を奉り以て到る。汝がある所、はるかに遠きも、すなわち使を遣わして貢献す。これ汝の忠孝、我はなはだ汝を哀れむ。今、汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮授せしむ。汝、それ種人[注釈 7]を綏撫し、勉めて孝順をなせ。
汝の来使、難升米・牛利、遠きを渉り、道路に勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。
今、絳地交竜錦[注釈 8]五匹・絳地縐粟罽[注釈 9]十張・蒨絳[注釈 10]五十匹・紺青[注釈 11]五十匹を以て、汝が献ずる所の貢直に答う。
また特に汝に紺地句文錦[注釈 12]三匹・細班華罽[注釈 13]五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚、真珠[注釈 14]・鉛丹[注釈 15]各々五十斤を賜い、装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受[注釈 16]し、悉く以て汝が国中の人に示し、国家[注釈 17]汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好き物を賜うなり[28]
『三国志』魏志倭人伝

詔書は冊封・任官と賜物の2項からなる[27]。朝鮮半島の国々よりも文化的に遅れていたはずの倭国の卑弥呼が「親魏倭王」を任じられ、数多くの品物を贈られた背景には、魏との敵対関係があった[29]。当時の中国では、日本列島は朝鮮半島から南北に延びる列島と誤認されていた(→邪馬台国畿内説#文献解釈も参照)。そのため、呉の背後にある倭国を味方につけることが政治的に重要であった[30]。これは魏が蜀漢と友好関係にあった西方諸国の背後にある大月氏国に贈った「親魏大月氏王」と同様の事情が考えられる[31]。その後の卑弥呼については、『魏志倭人伝』に正始元年(240年)の帯方郡太守から倭国への遣使、正始4年(243年)の倭国から魏への遣使、正始6年(245年)の魏から倭国へ詔・黄幢を授与、正始8年(247年)の倭国から帯方郡へ狗奴国との交戦報告、太守からの檄文告諭の記事がみられる[25]

卑弥呼没後は男王を立てたが国中が承服せず、卑弥呼と同族の女子台与を共立することとなる[32]。『魏志倭人伝』に248年ごろの台与による魏への遣使が記録されている[25]。『晋書』四夷伝および『日本書紀』所引の『晋起居注』からは泰始2年(266年)に倭人が遣使したことが知られるが、台与によるものであるとは明記されていない[33]

4世紀の倭国と朝鮮半島

266年の遣使以降、1世紀以上にわたって中国の正史から倭国に関する記述が姿を消す[32]

慎重な史料批判が必要だが、『日本書紀』神功紀には『百済三書』が引用されており、4世紀の日本列島と朝鮮半島との交渉が記述されている[34]。神功紀は『魏志倭人伝』の卑弥呼を神功皇后に擬するために4世紀の出来事を卑弥呼の時代に120年あるいは180年分移動させていることが分かっている[35]。ただし『日本書紀』編集者による創作も多く、『百済記』に由来する近肖古王の時代(346年-375年)の倭国関連の史実としては、364年の加耶諸国への職麻那那加比跪(斯麻宿禰)の遣使、369年の倭と百済の通交開始、斯麻宿禰の遣使・報使が挙げられるにとどまる[36]

また広開土王碑などの史料からは、391年から倭が百済・新羅に侵攻し、397年(『三国史記』、『百済記』)あるいは399年(広開土王碑)には百済と同盟を結ぶなど、4世紀末から5世紀初頭にかけての倭の朝鮮半島での活動が確認されている[37]

倭の五王(宋)

404年に高句麗に撃退された倭国は、413年に南朝の東晋に朝貢する[38]。そして421年には倭王が東晋から禅譲されたの皇帝に爵号を授けられ、4年後には曹達を宋に派遣している[38]。その後、の朝貢が続く[39]。倭王武は478年に「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」に任命されるが、武を最後にまた1世紀以上にわたり倭国が中国に朝貢しない時代が続く[40]。中国の冊封体制から離脱して独自の国制を形成することを志向するようになるのである[40]

「倭国」から「日本」へ(隋・唐)

しかしが建つとその緊張は朝鮮半島まで及び、高句麗・新羅・百済が相次いで隋に朝貢するようになる[41]。この情勢のなか、倭国は600年に隋に初めて遣使する[41]。隋の文化を目の当たりにした推古朝の為政者たちは、冠位十二階十七条憲法を制定し、国政を改革する[42]。隋の滅亡後も630年に第1回遣唐使を派遣して、との国交を開いた[43]。645年には乙巳の変が発生し、朝廷を構成する豪族による新王の推戴という従来の制度から、皇極天皇中大兄皇子という大王家内部の意志による王位継承へと変化するという画期的な出来事が起こる[44]。天智朝には庚午年籍の作成など次々に改革がおこなわれた一方で、白村江の戦いでの敗戦によって朝鮮半島における倭国の影響力が失われ、また最後にして最大の渡来人の集団移住を促すこととなった[45]

壬申の乱を経た天武持統朝には『飛鳥浄御原令』(689年)、『大宝律令』(701年)が編纂され、ここに律令制にもとづいた国家を成立させる[46]。確認されるなかでは701年の『大宝律令』および遣唐使が初めて「日本」の国号を用いている[47]。『日本書紀』の674年の記事ではまだ「凡そ銀の倭国に有ることは(後略)」と記されていることから、国内で「日本」国号が定められたのは674年以降である[48]

脚注

参考文献

関連項目

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