秦舞陽
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生涯
燕の勇士として知られていた。13歳の時に人を殺したことがあり、当時の人々は彼を畏れ、誰も面と向かって見ることができなかったという[2]。後に燕の太子丹が彼を探し出し、荊軻の副使に起用し、秦王政(後の始皇帝)暗殺の任務に就かせた。
紀元前227年、咸陽の朝廷において秦王政に謁見した。秦舞陽は匕首が仕込まれた燕の督亢(肥沃な土地、現在の河北省保定市高碑店市を中心とする広い地域)の地図を献上する役目を担った。しかし階段下に至ると、恐怖から顔色が変わり震え始めた。不審に思った群臣が尋ねると、荊軻は秦舞陽を見て微笑み、「北方の蛮夷の田舎者で天子にお目にかかったことがないため、震え慄いているのです」と取り繕い、秦王政に命じられて荊軻が代わりに地図を献上した。その後、荊軻は作戦を実行して秦王政を狙ったが、その間に秦舞陽が何か行動したという記録はない。結局、暗殺は失敗して荊軻はその場で殺害された。
秦舞陽のその後については史書に記載が無く、不明である。
