立原元夫
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法曹の雄と呼ばれた花井卓蔵の五男[3]として生まれた。卓蔵の生家であった立原家に跡継ぎが無く断絶していたため、1928年(昭和3年)4月に立原姓を名乗り、立原家を死跡相続した[4]。
東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属高校)在学中よりサッカーを始め、1933年に早稲田大学に入学し、在学中はア式蹴球部に所属した。1934年に開催された第10回極東選手権競技大会の日本代表に選出され、5月13日のオランダ領東インド(現:インドネシア)代表戦で日本代表として初出場した。1935年にはア式蹴球部の主将を務めた[5]。
1936年3月に早稲田大学を卒業して大日本人造肥料(現:日産化学)に入社[5]、傘下の合同油脂に勤務した[6]。同年に開催されたベルリンオリンピックの日本代表に選出され[2]、1936年8月のスウェーデン代表戦など2試合に出場した(ベルリンの奇跡を参照)[7]。
1937年には従軍し、張家口・大同方面の戦闘に参加した[8]。
1942年8月、満州国建国十周年慶祝東亜競技大会の日本代表に選出され、主将として3試合に出場した[9]。
その後、日産化学から分離した日本油脂(現・日油)で神明工場副工場長などを務めた[10]のち、関連会社の日油タセト商事(現・タセト)の代表取締役となった[11]。