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立林何帠

江戸時代の画家 From Wikipedia, the free encyclopedia

立林 何帠(たてばやし かげい、生没年不明)は、江戸時代の画家である。尾形光琳の弟で陶芸家であった尾形乾山から絵画を学び、琳派の画風を継いだ絵師として、酒井抱一登場以前の江戸で活動した。白井 宗賢ともいう。

生誕 不明
国籍 日本の旗 日本
著名な実績 大和絵
代表作 松竹梅図屏風、天神図
概要 立林 何帠, 生誕 ...
立林 何帠
生誕 不明
国籍 日本の旗 日本
著名な実績 大和絵
代表作 松竹梅図屏風、天神図
流派 琳派
影響を受けた
芸術家
尾形乾山、尾形光琳
影響を与えた
芸術家
酒井抱一、俵屋宗理
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来歴

『松竹梅図屏風』
『玉蜀黍に朝顔図』

立林何帠の来歴の多くは定かではなく、特に画家になる以前の来歴のほとんどは不明である[1]。江戸で晩年の尾形乾山から絵画を学び、画家として活動した[1]。酒井抱一著『光琳百図後編』(1826年)には、1738年9月8日に尾形乾山が何帠に、尾形光琳による俵屋宗達作品の模写画を贈った際の添状が収録されているが、原本は現存しない[1]。なお、乾山の絵の弟子は立林何帠の他には知られていない[2]。

出身は、酒井抱一著『尾形流略印譜』(1815年)によれば加賀藩に仕える医者であったが江戸に亡命してきたとされており、また先述の『光琳百図後編』収録の添状には「高医北林何帠」の記述がある[1]。一方で加賀藩の史料には立林何帠と思われる名前が見つかっておらず、本当に医者であったかは不明である[3]。なお、『近世逸人画史』では「相州鎌倉の人」とされている[4]。仲町啓子は、『尾形流略印譜』の「亡名(ママ)シテ江戸ニ来リ」という不穏なところのある記述は、加賀騒動と何かしら関係があるのではないかと推測している[3]。

名前

改名前の名は「立徳」であるが、姓は定かではなく、『尾形流略印譜』によれば立林、『近世逸人画史』では平林とされており、先述の通り『光琳百図後編』には北林との表記もみられる[1]。江戸への亡命後に白井宗賢に改名したとされており、1745年作の『天神図』の箱書に「白井何帠」の記述があるため、先述の『光琳百図後編』の記述と合わせて1738年から1745年に改名した可能性がある[3]。

号としては、何帠のほかに太青、逸幽、喜雨斎、鶴岡逸民などを用いる。仲町啓子は、これらの号が文人趣味的である点を指摘し、尾形乾山から強い思想的影響を受けていることが窺えると述べている[1]。

画風

モチーフや描法などは尾形光琳からの影響が強い[5]。また、乾山から譲られた光琳の「方祝」印を用いたため、何帠の落款を持つ絵の多くは長らく光琳の作品だと誤認されてきた[6][7]。『玉蜀黍に朝顔図』を鑑定した住吉広尚は方祝印があるために光琳の作だと誤認し、「光琳小出来物」(まあまあの出来の光琳画)と鑑定している[6][8]。

評価

酒井抱一は『尾形流略印譜』で何帠を「光琳三世の画なり」と高く評価している[9]。

1969年刊の『原色日本の美術14 宗達と光琳』は何帠の作品を「個性的なところのない、いたずらに華美な装飾画風で、光琳画の本質を理解したとはいえない」と評し、当時の江戸での受容について「そのようなものが、光琳画風としてよろこばれたのであろう」と述べている[10]。一方で仲町啓子は何帠の作風を「抜群の独創性を見ることははばかられる」と評しつつも、のちに琳派と呼ばれるようになる宗達光琳風が江戸に波及した最初期の人物として、単に絵の技巧のみで論ずべき人物ではないと述べている[4]。また、仲町は何帠の静謐な草花画が当時の江戸で受け入れられ、のちに江戸琳派を大成させる酒井抱一に影響を与えたと述べている[6]。また、小林忠は俵屋宗理も何帠の直接ないし間接の影響があった可能性を指摘している[2]。

作品

1980年現在、印章等の特徴から立林何帠の作品であると確定しているのは下記の6作品のみである[7]。また、伝称作を含めても2013年時点で全部で30作品にも満たない少なさである[9]。

脚注

参考文献

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