立林何帠
江戸時代の画家
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来歴


立林何帠の来歴の多くは定かではなく、特に画家になる以前の来歴のほとんどは不明である[1]。江戸で晩年の尾形乾山から絵画を学び、画家として活動した[1]。酒井抱一著『光琳百図後編』(1826年)には、1738年9月8日に尾形乾山が何帠に、尾形光琳による俵屋宗達作品の模写画を贈った際の添状が収録されているが、原本は現存しない[1]。なお、乾山の絵の弟子は立林何帠の他には知られていない[2]。
出身は、酒井抱一著『尾形流略印譜』(1815年)によれば加賀藩に仕える医者であったが江戸に亡命してきたとされており、また先述の『光琳百図後編』収録の添状には「高医北林何帠」の記述がある[1]。一方で加賀藩の史料には立林何帠と思われる名前が見つかっておらず、本当に医者であったかは不明である[3]。なお、『近世逸人画史』では「相州鎌倉の人」とされている[4]。仲町啓子は、『尾形流略印譜』の「亡名(ママ)シテ江戸ニ来リ」という不穏なところのある記述は、加賀騒動と何かしら関係があるのではないかと推測している[3]。
名前
改名前の名は「立徳」であるが、姓は定かではなく、『尾形流略印譜』によれば立林、『近世逸人画史』では平林とされており、先述の通り『光琳百図後編』には北林との表記もみられる[1]。江戸への亡命後に白井宗賢に改名したとされており、1745年作の『天神図』の箱書に「白井何帠」の記述があるため、先述の『光琳百図後編』の記述と合わせて1738年から1745年に改名した可能性がある[3]。
号としては、何帠のほかに太青、逸幽、喜雨斎、鶴岡逸民などを用いる。仲町啓子は、これらの号が文人趣味的である点を指摘し、尾形乾山から強い思想的影響を受けていることが窺えると述べている[1]。
画風
評価
酒井抱一は『尾形流略印譜』で何帠を「光琳三世の画なり」と高く評価している[9]。
1969年刊の『原色日本の美術14 宗達と光琳』は何帠の作品を「個性的なところのない、いたずらに華美な装飾画風で、光琳画の本質を理解したとはいえない」と評し、当時の江戸での受容について「そのようなものが、光琳画風としてよろこばれたのであろう」と述べている[10]。一方で仲町啓子は何帠の作風を「抜群の独創性を見ることははばかられる」と評しつつも、のちに琳派と呼ばれるようになる宗達光琳風が江戸に波及した最初期の人物として、単に絵の技巧のみで論ずべき人物ではないと述べている[4]。また、仲町は何帠の静謐な草花画が当時の江戸で受け入れられ、のちに江戸琳派を大成させる酒井抱一に影響を与えたと述べている[6]。また、小林忠は俵屋宗理も何帠の直接ないし間接の影響があった可能性を指摘している[2]。