立花家千橘
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| 2代目 | |
| 本名 | 中村 常次郎 |
|---|---|
| 生年月日 | 1873年 |
| 没年月日 | 1922年4月14日 |
| 出身地 | |
| 師匠 | 2代目三遊亭圓橘 |
| 名跡 | 1. 2代目立花家千橘(? - 1922年) |
| 活動期間 | ? - 1922年 |
| 所属 | 三遊派 互楽派 藤明派 圓頂派 反対派 |
| 主な作品 | |
| 安来節の電気入り「どじょうすくい」 | |
立花家 千橘(たちばなや せんきつ、1873年(享年からの逆算) - 1922年4月14日)は、音曲師[1]。本名は中村 常次郎[1]。
2代目三遊亭圓橘の門下だった[1]。1897年ごろ、大阪に本拠を移す[1]。まもなく互楽派、藤明派に参加その後桂派に迎え入れられた。[要出典]大阪移住後に、前記の三遊亭千橘(木村兼次郞)がその名前で活動したため、亭号は違えど東西に千橘がいる形となった[1]。
明治末に初代橘ノ圓の圓頂派に参加した。大正に入り反対派に参加した。
大阪では「どじょうすくい」売り物にした[1]。この踊りは変り目ごとに懐から懐中電灯を取り出しピカリとつけるとぼけた趣向で、脚光を浴びた[要出典]。千橘としては「2代目」を名乗った[2]。誰を初代と目していたかは不明である。
1922年に没し、反対派のメンバーによる葬儀が執り行われた。辞世の句は「濁る世の鰌を掬ひし我なれば今は仏のすくひ待つのみ」[要出典]。享年50[1]。墓所は大阪府大阪市天王寺区上本町9丁目の壽法寺(別名・紅葉寺)。[要出典]
3代目
| 3代目 | |
| 本名 | 坂本 梅之助 |
|---|---|
| 生年月日 | 1892年 |
| 没年月日 | 1945年3月28日 |
| 出身地 | |
| 師匠 | 2代目桂三木助 立花家橘之助 |
| 名跡 | 1. 4代目桂小半(時期不明) 2. 3代目立花家千橘(? - 1945年) |
| 活動期間 | ? - 1945年 |
| 活動内容 | 新作落語 百面相 手踊り 声色 芝居 |
| 所属 | 互楽派 反対派 花月 他 |
3代目 立花家 千橘(たちばなや せんきつ、1893年(月日未詳)[2] - 1945年3月28日[3](6月28日という説もある。[要出典]))は、大正から昭和にかけての上方落語の落語家(上方噺家)。
茶番師(俄師)の2代目信濃家小半の実子で[2]、初代小半の甥に当たる。裕福な家庭だったという。[要出典]2代目桂三木助に入門して父と同名の桂小半を名乗る[2]。初代林家染五郎と組んで軽口をやっていた。父の没後三木助にみっちり指導を受けた。[要出典]1924年5月[要出典]、立花家橘之助門下に移り、大正の末に3代目千橘に改名(前記中村常次郎が2代目を称したため3代目を名乗った)[2]。
吉花菱連の一派にも在籍していたことがある。戦時中の数年間引退して、1944年ごろに復帰したが[要出典]翌年の終戦前に没した[2]。享年52[2]。
小半を名乗った当時から、新作落語の創作や古典落語の改作などを手がける先進的な芸風だった[2]。他にも百面相や手踊り、声色、芝居もこなすなど多芸だった[要出典]。踊りをよくし、美男子として評判だったこともあり、主に女性から高い人気を博した[2]。