竹本正岑

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時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 不明
死没 宝暦7年4月9日1757年5月26日)(82歳没)
改名 正岑→念良(法名)
 
竹本 正岑
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 不明
死没 宝暦7年4月9日1757年5月26日)(82歳没)
改名 正岑→念良(法名)
別名 彦五郎、権右衛門、権右衛門尉[1]、正峯[1]
墓所 光円寺(光圓寺)
幕府 江戸幕府御鷹匠小十人
主君 徳川綱吉家宣?→家継?→吉宗
氏族 摂津源氏馬場氏支流高田氏竹本氏
父母 父:竹本望任、母:窪田正久の娘
兄弟 正岑、女子(渡邊七郎兵衛某の妻)
瀧野平右衛門保武の娘
正甫、正豊、正徳、正孫
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竹本 正岑(たけもと まさみね)は、江戸時代前期から中期の旗本御鷹匠小十人

南北朝時代武将高田義遠(新田左中将義貞十六騎の一人)の次男・高田又次郎(竹本政季[注釈 1]の後裔。(家紋:釘抜鳩酸草

天正12年(1584年)、竹本正岑の曽祖父・竹本権右衛門光政[注釈 2]徳川秀忠に仕える。その後、徳川家康の命により、武蔵国横山(八王子)支配のため、八王子十八人代官の一人として駿河国より移住した。を飼った経験があり、武蔵国川越などで行われた鷹狩に塒飼として従った。昵懇の間柄となった徳川秀忠から御鷹(将軍の鷹)を預かり、御鷹飼となる。以降、子の望政、孫の望任と三代に渡って御鷹飼職を世襲し、上野天満神社にあった自らの屋敷の北隣を御鷹部屋にして管理していた[2]。望任は後に御鷹匠となる。

大横町にあった大善寺本堂近くに竹本権右衛門光政・望政・望任の三代の墓所があった。しかし大善寺は、昭和36年(1961年大谷町に移転(墓所も移転したかは不明)。現在の大善寺本堂内には、寛永3年(1626年)竹本権右衛門光政などが大旦那となり、加藤甚左衛門尉長重が鋳造した釣鐘[注釈 3]が保管されている[3]

生涯

元禄17年(1704年)、八王子の代官駐在制度が廃止となってしまう。

宝永2年(1705年)2月19日、竹本正岑が家督を継ぐ。後に御鷹匠となるが、既に発布されていた生類憐れみの令により、鷹狩または関係する儀礼は縮小・禁止され、将軍自らによる鷹狩も行われなくなっていた。

享保3年(1718年)12月18日、小十人となり江戸に移住した。

後年、子の正甫は徳川宗武に仕えて、田安家の小十人、廣敷用人、郡奉行になる。同じく、子の正孫(正甫の弟)は徳川宗尹に仕えて、一橋家の廣敷用人となる。

脚注

参考文献

関連項目

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