竹橋

東京都千代田区北の丸公園にある橋 From Wikipedia, the free encyclopedia

竹橋(たけはし)は東京都千代田区北の丸公園にあるである。清水濠の上に架り、一ツ橋一丁目と北の丸公園とを結んでいる。

竹橋(2019年10月9日撮影)
竹橋(2019年10月9日撮影)

概要

橋と名前の由来

徳川氏の関東入国以前にすでに存在していた。

竹橋の名は、を編んで渡した橋だったからすのこ橋あるいは竹橋とも[1]、また後北条家の家臣・在竹彦四郎が近在に居住しており「在竹橋」と呼んだのが変じたものとも言われる[1]

『慶長江戸図』(通称:別本慶長江戸図)[2]には『御内方通行橋』と記してあり、主として大奥への通路に用いられたようである。

江戸時代は幕府の文書保管庫

徳川氏が江戸に入り、1603年(慶長8年)に幕府を開く前後から、この近くに、徳川氏以前のぶんも含めた行政文書類を保管する庫が建てられた[3]。これ以降、このあたりは幕府の文書保管庫として機能することになる。

江戸時代も中期を過ぎると、必要な書類を探し出すにもどこに何があるのか分からず、収拾がつかない状態になっていた。支配勘定の職にあった蜀山人大田直次郎は、1800年(寛政12年)、「御勘定所諸帳面取調御用」を命じられてこの整理に取り組むことになった[4]

2月から10余人の同僚や部下と共に倉庫に入って整理し、4月中旬にはひとまず終わっているが、この作業の合間に、自ら有用と思った記録類を選択、収集し、その一部を3月に『竹橋蠧簡』5巻(5冊)、閏4月には『竹橋余筆』7巻(7冊)に編集している[4]。その後、『竹橋余筆別集』12巻(12冊)[5]がまとめられたので、1年未満の間に3部の資料集を編集したことになり、大田直次郎の有能さが示されることとなった[4]

来る日も来る日も古書類と取り組んだようすを詠んだ歌が、「五月雨の日もたけ橋のほぐ(反古)しらべ今日もふる帳あすも古帳」である[6]

収集・整理した原史料は、維新後に明治政府に移されたが、大半が散佚するか、関東大震災で焼失してしまっているので[7]、この3部は江戸幕府の財政・民政政策をうかがい知る貴重な歴史資料ということになる[4]

竹橋事件

明治時代には、橋西詰に近衛砲兵大隊竹橋部隊があった。1878年(明治11年)8月23日、西南戦争後の処遇を巡って、竹橋兵営に居住する同部隊の兵士215名が武装蜂起したために、のちに竹橋事件と呼ばれることになる騒乱が起きた[8]。天皇と宮城を警護する近衛兵が、宮城に向かって発砲したために明治政府は驚愕し、反乱が鎮圧されたのちに53名の兵士が銃殺された[8]

この事件が契機となって、同年の山県有朋による「軍事訓誡」と1882年の軍人勅諭の公布に至ることになる[8][9]

蛍狩りができたことも

日露戦争後、祝勝会で皇居の濠にホタルが放たれたことがあり、1908年(明治41年)頃には竹橋でも蛍狩りができた[10]

近隣の施設

現在では、皇居の水堀と神田オフィス街や首都高速道路竹橋ジャンクションとに囲まれている。

内堀通り竹橋交差点と千鳥ヶ淵交差点を結ぶ公道(代官町通り)の一部をなしており自動車の往来が激しい。橋の東詰に東京地下鉄(東京メトロ)東西線竹橋駅があり、そばに毎日新聞東京本社などが入るパレスサイドビルディング、建て替えられた丸紅本社ビル(2021年春竣工)、西詰に東京国立近代美術館国立公文書館がある。

その他

三菱UFJ銀行竹橋支店は竹橋の名が付いているが、入金照合サービスで使用する被振込専用支店であるため、実店舗としては存在しない。

脚注・参考文献

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI