竹橋
東京都千代田区北の丸公園にある橋
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概要
橋と名前の由来
徳川氏の関東入国以前にすでに存在していた。
竹橋の名は、竹を編んで渡した橋だったからすのこ橋あるいは竹橋とも[1]、また後北条家の家臣・在竹彦四郎が近在に居住しており「在竹橋」と呼んだのが変じたものとも言われる[1]。
『慶長江戸図』(通称:別本慶長江戸図)[2]には『御内方通行橋』と記してあり、主として大奥への通路に用いられたようである。
江戸時代は幕府の文書保管庫
徳川氏が江戸に入り、1603年(慶長8年)に幕府を開く前後から、この近くに、徳川氏以前のぶんも含めた行政文書類を保管する庫が建てられた[3]。これ以降、このあたりは幕府の文書保管庫として機能することになる。
江戸時代も中期を過ぎると、必要な書類を探し出すにもどこに何があるのか分からず、収拾がつかない状態になっていた。支配勘定の職にあった蜀山人大田直次郎は、1800年(寛政12年)、「御勘定所諸帳面取調御用」を命じられてこの整理に取り組むことになった[4]。
2月から10余人の同僚や部下と共に倉庫に入って整理し、4月中旬にはひとまず終わっているが、この作業の合間に、自ら有用と思った記録類を選択、収集し、その一部を3月に『竹橋蠧簡』5巻(5冊)、閏4月には『竹橋余筆』7巻(7冊)に編集している[4]。その後、『竹橋余筆別集』12巻(12冊)[5]がまとめられたので、1年未満の間に3部の資料集を編集したことになり、大田直次郎の有能さが示されることとなった[4]。
来る日も来る日も古書類と取り組んだようすを詠んだ歌が、「五月雨の日もたけ橋のほぐ(反古)しらべ今日もふる帳あすも古帳」である[6]。
収集・整理した原史料は、維新後に明治政府に移されたが、大半が散佚するか、関東大震災で焼失してしまっているので[7]、この3部は江戸幕府の財政・民政政策をうかがい知る貴重な歴史資料ということになる[4]。
竹橋事件
明治時代には、橋西詰に近衛砲兵大隊竹橋部隊があった。1878年(明治11年)8月23日、西南戦争後の処遇を巡って、竹橋兵営に居住する同部隊の兵士215名が武装蜂起したために、のちに竹橋事件と呼ばれることになる騒乱が起きた[8]。天皇と宮城を警護する近衛兵が、宮城に向かって発砲したために明治政府は驚愕し、反乱が鎮圧されたのちに53名の兵士が銃殺された[8]。
蛍狩りができたことも
日露戦争後、祝勝会で皇居の濠にホタルが放たれたことがあり、1908年(明治41年)頃には竹橋でも蛍狩りができた[10]。
近隣の施設
その他
三菱UFJ銀行竹橋支店は竹橋の名が付いているが、入金照合サービスで使用する被振込専用支店であるため、実店舗としては存在しない。

