符彦饒

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符 彦饒(ふ げんぎょう、生年不詳 - 937年)は、五代十国時代軍人本貫陳州宛丘県[1][2]

符存審の次男として生まれた。若くして勇猛で、騎射を得意とした。天祐15年(918年)冬、晋王李存勗が胡柳陂の戦いで梁軍と会戦すると、彦饒は弟の符彦図とともに父に従って奮戦した。功績を挙げて、騎将に任用された。後唐同光年間、功により曹州刺史に任じられた。天成元年(926年)、明宗が即位すると、彦饒は沂州刺史に転じた。天成年間、瓦橋関に駐屯して守備した。控鶴軍指揮使の張諫が乱を起こし、彦饒に宣武軍節度使となるよう迫ると、彦饒は承諾したようにみせかけて、翌日に張諫を殺害して奏上した。長興年間、金州防禦使となった[3][4]清泰元年(934年)、右千牛衛上将軍から厳衛軍右廂都指揮使となった[5]。清泰3年(936年)、饒州刺史から忠正軍節度使となり、侍衛歩軍都指揮使をつとめた[6]

後晋天福元年(936年)、彦饒は義成軍節度使となり、検校太傅に累進した。天福2年(937年)6月、范延光興唐府に拠って反乱を起こすと、彦饒は白奉進とともにその鎮圧にあたることになった。7月、白奉進と争い、かれを捕らえて殺害した。歩軍都校の馬万や次校の盧順密がその部下を率いて滑州の牙城を攻め、彦饒を捕らえた。彦饒は開封府に送られる途中、赤岡の南で石敬瑭に派遣された宦官の使者に殺害された[3][7]

脚注

伝記資料

参考文献

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