第30SS武装擲弾兵師団 (白ロシア第1)
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| 第30SS武装擲弾兵師団 (白ロシア第1) | |
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第30SS武装擲弾兵師団 | |
| 創設 | 1944年5月25日 |
| 廃止 | 1945年5月8日 |
| 所属政体 |
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| 所属組織 | 武装親衛隊 |
| 編制単位 | 師団 |
| 兵種/任務 | 擲弾兵 |
| 戦歴 | 第二次世界大戦 |

第30SS武装擲弾兵師団 (白ロシア第1)(独: 30. Waffen-Grenadier-Division der SS (weißruthenische Nr. 1))は武装親衛隊の師団であり、第二次世界大戦中、主に東部戦線で活動。
1944年6月18日に親衛隊は、ナチス・ドイツの傀儡政権であるベラルーシ(白ロシア)中央ラーダ議長のラドスウァフ・オストロフスキらとその家族800名を特別列車を仕立ててケーニヒスベルクへ移送していた。中央ラーダに属していたベラルーシ防衛部隊(BKA)の新兵はドイツ軍が撤退しつつあることによりベラルーシに集合していたが、たとえソビエト連邦に降伏したところで内務人民委員部(NKVD)により詳細な調査を受けること・更に彼ら20,000名はソビエト連邦政府が決して恩赦を出さないことを知っていた。そのため彼らは1,000マイルもの行進を行い、第30SS武装擲弾兵師団 (ロシア第2)へ合流した。この擲弾兵師団は第29SS義勇擲弾兵師団(ロシア第1)の残存兵と白ロシア、ウクライナの将兵で構成されていた。編成後、第30SS武装擲弾兵師団にはパルチザンとの戦闘経験がある将兵が含まれていたことから、フランスレジスタンスの掃討を行うためにアルザス=ロレーヌへ移動した。また、白ロシアの士官候補生は即座にアメリカ第3軍(司令官ジョージ・パットン)との戦いに投入された。
オストロフスキは親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーに白ロシア中央ラーダの支配下に師団を所属させるよう要請していた。同時に、オストロフスキは士官学校を立てて、「武装SS突撃旅団白ロシア」専用制服も制定することも要請しており、師団章に選ばれたシンボルはポラツァクの聖エウプロシュネ(St. Euphrosyne of Polatsk)の二重十字であった。その後、師団はアンドレイ・ウラソフのロシア解放軍に合流するよう命令されたが、この命令は結局、実行されなかった。[1]