第57歩兵師団 (ドイツ国防軍)
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戦闘
ポーランド侵攻作戦の際、第57歩兵師団はプレショフ(スロバキア)方面からの攻撃に投入され、デュクラ峠(en)での戦闘に参加し、そこからサン川を越えリヴィウに向かって進撃した。サンビル(en)とゴロドク(en)では小規模な戦闘を行っている。ポーランドでの作戦終了後、1939年の冬に陸軍総司令部(OKH)の予備部隊としてハーナウに移された。
西方戦役
1940年5月の西方戦役において第57歩兵師団はレマーゲン、トリーア、ルクセンブルクを経てアブヴィルまで進撃した。1940年5月28日から6月4日までのアブヴィルにおける戦闘では、190両の敵戦車を撃破する戦果を挙げている。その後、ソンム橋頭堡の第4軍の指揮下に入り、ノルマンディーのカランタン、ルアーブルへと向かった。休戦後、第57歩兵師団はディエップとカランタンの沿岸防衛のため占領軍として第10軍に配属された。
独ソ戦

バルバロッサ作戦に備え、第57歩兵師団は第6軍の指揮下に入りポーランド総督府領のザモシチに移された。1941年6月22日より師団は、ソカリ近くのブク川を渡りウクライナのスターリン線(en)を突破しベルドィーチウ(en)を経由してウーマニの戦いに参加。その後、師団は南方軍集団麾下の第17軍に組み込まれクルィヴィーイ・リーフへ移動した。1941年の秋、第一次ハリコフ攻防戦に参加し、ベルゴロドを攻撃し1942年の春までドネツ川周辺に展開していた。
1942年夏のブラウ作戦において、第57歩兵師団はドン川まで進撃し、ソビエト赤軍の反攻に対してヴォロネジの橋頭堡を防衛する任務を担った。ドン、オスコル川(en)、ヴォロネジでの防衛戦は1943年の春、赤軍によるヴォロネジ–カストルノエ攻勢(en)が大きくなるまで続いた。7月から8月にかけてベルゴロドで再び防衛戦が行われ、その後、キエフ南方のチェルカースィからドニエプル川までの撤退が行われた。その際、第255歩兵師団の残余部隊を編入している。1943年8月17日、コルツーン(Korzun)中将率いる赤軍第47軍(enの攻勢により師団は大きな損害を被り、スームィへの退却を余儀なくされた。
1944年2月9日、第57歩兵師団は、第72歩兵師団と第389歩兵師団の残余と共に赤軍の正面からの包囲網に巻き込まれ、コールスニの野戦飛行場を巡る赤軍によるドニエプル・カルパティア攻勢(en)に巻き込まれた[1]。包囲された師団がリシャンカ(en)に向けて撤退する際、後の第28SS義勇擲弾兵師団となる『SS突撃旅団「ヴァロニェン」(SS-Sturmbrigade „Wallonien“)』の東側で後衛を務めることになった。最後の包囲網突破の中心となったのは、軍需物資と数百人の死傷者が残されたジェンデロフカ村てあった。
1944年2月18日、師団の部隊は軽装で膝まで雪に埋もれる中、絶望的な状況にありシェンデロウカ(ru)でいくつかの兵員は赤軍の捕虜となりドネツク周辺に連行された。師団の大部分は赤軍の包囲網を突破して南西への撤退に成功している。しかし、その際、グニロイ・ティキチ川(en)で待機していた第1装甲師団の救援部隊を見逃し、車両を用いずに凍っていない川を突破したため渡河において多くの犠牲者が出た[2]。
1944年4月、ヴォルシャとモギリョフへの撤退を行ったが、6月に始まった赤軍のバグラチオン作戦によりモギリョフ近郊で壊滅し、OKHの司令により1944年8月3日に師団は解散された[3]。