第二復員省
かつて存在した日本の省庁 (旧海軍省)
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解説
1945年(昭和20年)12月1日付をもって海軍省が廃止され、第二復員省が設置された。「第二復員省官制」(昭和20年勅令第680号)に基づき設置され、「第一復員省官制の廃止等に関する勅令」(昭和21年勅令第314号)によって1946年(昭和21年)6月15日に廃止され、第一復員省(旧・陸軍省)と統合して復員庁(旧第二復員省は復員庁第二復員局)となった。
第二復員省資料整理部(旧軍令部第一部作戦課が中心)では海軍再建の研究も行われ[1]、それらの出身者は海上保安庁から海上警備隊を経て海上自衛隊の創設へと貢献した。
第二復員省の機能は、1946年(昭和21年)6月15日の復員庁発足によって単純に消滅したのではなく、海軍関係の復員業務を担当する第二復員局として継承された[2]。第二復員局は復員業務のほか、状況不明者調査究明業務、GHQの要求に基づく法務・戦利品・史実資料関係の調査業務、管船業務、掃海業務を所掌し、旧第二復員省の現業機能を引き継いだ[2]。同局総務部は第二復員省の総務局・法務局および官房電信課・医務部を継承し、総務課・艦船運航課・掃海課・造修課・電信課・医務課を置いて、各部事務の総合統制、部外交渉、規律維持、掃海、艦船造修、通信などを掌った[3]。また資料整理部は第二復員省の官房史実調査部および航本・艦本・施本整理部を継承し、各種資料の調査、艦政本部・航空本部・施設本部の残務整理、旧海軍人事関係文書の作成・管理に当たった[4]。呉・佐世保などの地方復員局にも総務部、補給部、艦船運航部、管船部などが置かれ、特別輸送線の運航・補給と艦船管理の実務が分担された[5][6]。この局地的な現業組織の継続によって、記事後半に列挙されている地方復員局別の艦船配置も、復員輸送と掃海を地域ごとに割り振った運用体制の一部として位置づけられる[5][6]。こうした部局構成からみると、第二復員省から復員庁第二復員局への移行は名称変更だけではなく、本省と地方局を通じて復員輸送、掃海、資料整理の系統をそのまま戦後行政へ接続させるための再配置であった[2][3][4][5][6]。
この継承は1947年(昭和22年)10月15日の復員庁廃止でも直ちには終わらず、海軍関係の復員・調査業務は総理庁直属の第二復員局に移され、厚生省へ完全移管するまでの期間限定機関として存続した[7]。ただし全業務が同じ経路で残ったわけではなく、GHQの要求により管船・掃海業務は同年12月30日に運輸省海運総局掃海管船部へ移管され、1948年(昭和23年)5月1日の海上保安庁発足に伴って同庁保安局に継承された[7][8]。他方、掃海および船舶の保管に関する事務以外の事務は1948年1月1日に厚生省の復員局へ移管され、同局の第二復員局残務処理部で旧海軍関係の復員・資料・会計残務が処理される体制となった[9]。さらに同年5月31日の引揚援護庁発足後は、その残務処理部門が同庁復員局の下で引き続き維持された[10]。すなわち第二復員省の後継機関は一度に一本化されたのではなく、1948年(昭和23年)春までに海務系と残務処理系へ分かれて整理されたのである[7][8][9][10]。その結果、旧海軍の残務は一つの後継官庁に集約されず、海上保安庁につながる海事系統と、厚生省・引揚援護庁につながる援護系統とに分かれて継続した[8][9][10]。また復員庁第二復員局の下部機関には、横須賀・呉・佐世保・舞鶴・大湊の各地方復員局に加え、博多・門司・田辺・鹿児島の上陸地連絡所が含まれた[2]。厚生省復員局の下には第一復員局残務処理部と第二復員局残務処理部が置かれ、旧陸軍系と旧海軍系の残務処理部が並置された[9]。さらに引揚援護庁復員局では総務部、第一復員部、第二復員部の編成がとられ、旧海軍由来の残務処理も引き続き同局の内部部局で扱われた[10]。このため第二復員省を起点とする行政機構は、復員庁、総理庁、厚生省、引揚援護庁、運輸省、海上保安庁へと段階的に継承され、復員、調査、文書整理、管船、掃海という機能ごとに再編されていった[7][8][9][10]。
各局長は勅任の、各部長は勅任又は奏任の、秘書官は奏任の第二復員官の中からこれを補された。第二復員書記官は専任1人が定員であった。第二復員属は専任142名が定員であった。第二復員省に勤務する旧海軍将校は1945年(昭和20年)11月30日に海軍省廃官により予備役に編入のうえ即日充員召集され、12月1日からは第二復員官[11]、1946年(昭和21年)4月1日からは第二復員事務官[12]として勤務する形式が採られた。
極東国際軍事裁判対策
極東国際軍事裁判では、旧海軍軍令部出身者の豊田隈雄元大佐らを中心に昭和天皇への訴追回避、旧海軍幹部への量刑減刑に秘密裏に奔走した。 裁判開廷の半年前には、永野修身元帥以下の海軍トップを集めて、天皇の責任回避のための想定問答集の策定を行い、米内光政をGHQ側と折衝させるなどの工作を行った。そうした結果、昭和21年3月6日にはGHQのボナー・フェラーズ准将から米内に対して、天皇免責のために裁判では日本側が証言をするなどの努力が欲しいこと、陸軍に開戦の責任の大部があるなど、裁判についての内々の回答を得たという。
また、BC級戦犯裁判においては、中央への責任問題の波及を避けるため、現地司令官レベルで責任を完結させる弁護方針を立てて証人を隠すなどの工作も行っている。
第二復員大臣
大臣官房
総務局
人事局
経理局
法務局
地方復員局
日本国内の旧鎮守府と旧警備府計6ヶ所に地方復員局を置き、掃海作業や復員作業の実務を担当させた。
横須賀地方復員局
- 横須賀地方復員局長官
呉地方復員局
- 管轄区域[17]:愛知県、三重県、岡山県、広島県、山口県、鳥取県、島根県、岐阜県
- 呉地方復員局所管の艦船 (1945年12月1日現在)
- 呉地方復員局長官
佐世保地方復員局
- 管轄区域[17]:徳島県、香川県、愛媛県、高知県、大分県、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、宮崎県、鹿児島県
- 佐世保地方復員局所管の艦船 (1945年12月1日現在)
- 佐世保地方復員局長官
舞鶴地方復員局
- 舞鶴地方復員局長官
大阪地方復員局
- 大阪地方復員局長官
大湊地方復員局
- 大湊地方復員局長官
