篠原一貞
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篠原別家・11代当主で家老・篠原精一(篠原一精)の嫡男として天保元年(1830年)5月に生まれる。弘化元年(1844年)、名門の出でありながらも藩校・明倫堂に入学し、極めて優秀な成績で嘉永5年(1852年)に卒業。その後、安政3年(1856年)、万延元年(1860年)、文久2年(1862年)、都合3回の総試業(試験)を受け、成績優秀で、それぞれ「欽定易経」、「欽定書経」、「欽定詩経」を藩から授与されている。
万延元年(1860年)、定火消となり、元治元年2月(1864年)公事場奉行、3月明倫堂督学兼専務、8月には家老となり、重要政務に参加し署名を行う「御用之加判」を命じられ、12月富山御用主附となる。慶応3年(1867年)には学校御用主附となって、壮猶館学校(西洋式兵法学校)に力を注いだ。その間、加賀藩領海へも出没するようになった異国船への対応を命じられる。文久3年(1863年)、篠原家で所持していた西洋式武器・モルチール砲六貫と筒一挺を藩に献上し、魚津の武具土蔵へ納めた。同年、清妙院(篠原保智)の250回忌法要を桃雲寺で行い、藩主・前田斉泰から香典・白銀二枚を授かる。
元治元年(1864年)、禁門の変が起こる。幕府、長州藩双方への不戦の説得に失敗し、幕府への援軍を京から引いた前田慶寧を父の斉泰は謹慎させ、一貞に幕府への使者を命じた。しかし、越後梶屋舗駅まで行ったところで斉泰に出府命令が下され、金沢に戻る。慶応元年閏5月(1865年)斉泰が京都へ出発、一貞はお供を命じられ、京都御守衛詰となる。慶応2年8月(1866年)、将軍・徳川家茂が死去、「新将軍・慶喜と共に諸侯会議を開くので朝廷に集合せよ」との孝明天皇の命令が下る。病気で出発が遅れた13代藩主(前田家14代)・前田慶寧は、10月13日、一貞、本多政均以下、士卒3700人を従えて出発。一貞は、京都詰を命じられ、翌慶応3年5月10日(1867年)、金沢へ戻った。同年10月、第15代将軍・徳川慶喜の大政奉還に際し、列藩藩主の上京命令が下る。藩主・前田慶寧は、病気で代理に本多政均を行かせるが認められず、11月29日、一貞、横山隆平を従えて金沢を出発、一貞は慶寧が金沢へ帰るまでずっと行動を共にした。
王政復古後の京に到着した慶寧は、徳川慶喜に「このまま二条城にいて衝突を起せば、あなたは朝敵の汚名を受けることになる。すぐに二条城をでて、大坂へ行き、江戸へ帰るのがよい」という手紙を本多政均に届けさせている。慶応3年12月30日(1868年1月)、一貞は、藩内、佐幕(徳川幕府支持)か薩長主導の勤王を取るか、分かれる中、藩論をまとめ藩の方針を一つにすべく『篠原一貞建白書』を提出。内容は、以下の通りである……「今日の日本の状勢は、薩長が幼い天皇を取り込み、偽勅を出し、諸藩をないがしろにしている。世の中が混乱している時にどっちつかずでは藩の信頼も藩主としての大任も果たせない。藩内をまとめ、士気を高めるためにも大義名分を明らかにし、正義の諸藩と話し合い、諸藩に先立って朝敵の名を取られることこそ真の皇室への忠誠である」。慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いが起こり、徳川が朝敵とされ、世情も一変すると加賀藩は、徳川との提携を断ち切り徳川への援軍も金沢へ呼び戻した。一貞は、前年12月に提出した『建白書』の責任を取り、家老、御用之加判を辞任する。慶寧からは藩主留守中の「柳之御間御番」を命じられる。しかし、同年6月、死を覚悟して再度、藩に毅然とした措置と人材登用に関しては藩主に取り入る者や家柄ではなく士農工商すべてから志のある者を選ぶべきだとする『篠原一貞意見書(9か条)』を提出する。明治元年12月(1869年1月)、藩の職制が一新され、翌明治2年5月4日(1869年)、一貞は議長となる。同年6月、前田慶寧は金沢藩知事となり、大参事、小参事を置く。一貞は小参事を務め、10月、公議人として東京詰を命じられ、11月、権大参事となり、翌明治3年6月(1870年)、金沢に帰る。
同年8月19日から閏10月10日まで議長を務め、退任時には「御一新以来国事多端の折、格別の尽力をした」として金沢藩から金250両を与えられた。同年12月25日から明治4年5月25日(1871年)まで大参事を務める。明治20年(1887年)11月30日、死去。金沢市・野田山墓地(篠原別家墓地)に葬られる。
勘六(篠原一孝)によって築かれた加賀藩政の勘六(篠原一貞)による幕引きであった。