篠原保智
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母は、芳春院の侍女で後に前田利家の側室となった岩(隆興院)。生を受ける前に夭折した羽柴秀吉の養女・菊姫(利家の六女)は姉にあたる。徳川家康の第五子・松平信吉と婚約したが、嫁ぐ前に信吉が死去したため、人持組頭・篠原別家、初代当主で加賀藩家老・執政の篠原出羽守一孝の嫡男・篠原一由に嫁ぐ。その際、藩主・前田利常から化粧料、1500石を与えられている。
篠原一孝(豊臣一孝、17000石。栄錦院殿卿󠄁岩道本大居士)も前田利家の養女(利家の実弟・佐脇良之の娘)を正室(円智院)として迎え、利家の遺言により継室となった青山吉次(佐渡守)の娘・松齢院も、母は利家の妹の子で前田利長の養女となった長寿院である。また、篠原本家を継いだ一孝の義弟・篠原長次は、利家の性格を最も受け継いだ前田利家の実子である。
篠原一由と保智の間には男子・岩松が生まれるが、14歳で夭逝している。岩松に関しては、江戸で人質生活を送る芳春院の消息(手紙)に表れている。一通は、千世(春香院)宛のもので、「保智の岩松出産を祝い、篠原家への祝儀の品を事細かに指示したもの」であり、今一通は、ほう(前田利政の長男・前田直之)のうば(乳母)宛で、「幼い孫の直之の病質を毒でも食べさせられているのではないかと案じ、引合いに岩松の息災を安堵し、保智の体調を懸念したもの」である(実際は、岩松が早世し、直之は前田土佐守家当主として長生した)。保智は、禁教令下、キリスト教に傾倒していくが、慶長19年(1614年)6月24日、20歳で死去。夫の篠原一由(篠原貞秀)も有力家臣間の争いの渦中、配流(詳細不明)・早世した。保智の葬儀は、桃雲寺で執り行われ、位牌も桃雲寺に据えられた(明治2年(1869年)の桃雲寺の火災で篠原氏一族の位牌と共に焼失)。