篠田恒太郎
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来歴
生い立ち
医学者の土屋重朗によれば、恒太郞は医師である篠田蒼庵の子とされている[1]。蒼庵は豊前国企救郡の小倉城下に住んでおり[1]、蘭方医として知られる林洞海の旧友であった[1][3]。
また、同郷の政治家である堺利彦によれば、恒太郞は篠田蒼安の養子となったとされる[4]。蒼安も医師として活躍していたが[5]、同時に歌人としても知られた存在であった[5]。ところが、蒼安の妻の弟である志津野範雄が、事業に失敗したうえに病死したことから[6]、志津野家が没落することになった[7]。蒼安は範雄を信頼し公債証書を預けていたため[8]、その余波が及び篠田家も経済的に大きな損害を被った[8]。蒼安は範雄の遺児を引き取るも経済的に困窮し[7][9]、最終的に恒太郞や範雄の遺児らとともに大阪府に移住した[4]。大阪府で蒼安は薬種店を開業したが[4]、貧窮の中で死去した[10]。
こうした経緯もあり恒太郞が遺志を継ぎ、長じて薬剤師となった[1]。
薬剤師として

その後、大阪府に所在する緒方病院に採用され[1][† 1]、薬剤師として勤務した。少なくとも1892年(明治25年)頃には緒方病院に勤務していたという記録が残っている[1]。
1900年(明治33年)、大阪保生病院の薬局にて局長に就任した[1]。1901年(明治34年)、静岡県により設置・運営される公立静岡病院の薬局にて局長に就任した[1][† 2][† 3]。なお、公立静岡病院の源流である藩立駿府病院の初代院長は林研海だが、研海は林洞海の長男である。1906年(明治39年)に局長を退任した[1]。
さらに、静岡県庁の衛生技師にも任じられるなど[2]、県の公衆衛生行政にも携わった。しかし、体調の悪化により[11]、1924年(大正13年)4月に衛生技師を辞任した[11]。
教育者として

衛生技師を退職すると[2]、静岡県にて隠居暮らしを始め[10]、悠々自適の生活を送っていた。ところが、1925年(大正14年)に死去した岩﨑照吉に代わって[2]、静岡女子薬学校の第2代校長に就任することになった[2][† 4]。静岡女子薬学校は岩﨑が創設した私立学校であるが[2]、校長を喪った静岡女子薬学校は廃校の危機に陥っていた。
1926年(大正15年)12月に校長に就任すると、学校の立て直しに奔走した[2]。新たな本館を建設するべく尽力し、1930年(昭和5年)に竣工に漕ぎ着けている。しかし、校長在任中の1933年(昭和8年)1月12日に死去した。この事態を受けて、同年1月より石上喜一が校長事務取扱として学校を率いた。後任の校長は長らく置かれなかったが、1937年(昭和12年)3月になってようやく林寛三が第3代校長に就任した。

