米田慶三郎
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| 基本情報 | |
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| 国籍 |
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| 出身地 | 大阪府大阪市阿倍野区 |
| 生年月日 | 1943年1月13日(83歳) |
| 身長 体重 |
173 cm 72 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 遊撃手 |
| プロ入り | 1967年 ドラフト3位 |
| 初出場 | 1968年5月9日 |
| 最終出場 | 1979年10月23日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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米田 慶三郎(よねだ けいざぶろう、1943年1月13日 - )は、大阪府大阪市阿倍野区出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。
桃山学院高卒業後の1962年からPL教団でプレーし、土井垣武コーチの指導を受ける。当時のチームメイトには野田征稔がいたが、同年の都市対抗近畿予選敗退の後にチームが休部。1964年には電気化学工業へ移籍し、久保山誠監督の指導を受け、1967年の都市対抗野球に出場。
1967年のドラフト3位で大洋ホエールズに入団。
「年齢的にも最後のチャンス」の25歳でプロ入りし[1]、1年目の1968年は二軍で藤井勇監督の指導を受け、イースタン・リーグで本塁打王と打点王の二冠を獲得。開幕早々から長打力に一目置かれ、開幕後は不動の4番打者となり、3月30日の開幕戦の東京戦で西三雄から放った左翼席への第1号を皮切りに、4月1日にも西から9回二死後に初球を左中間へ豪快なサヨナラ本塁打にした。さらに同14日の巨人戦でも好調の菅原勝矢から左翼席へ3号目を奪うハイペースであった。
2年目の1969年には一軍に定着し、松岡功祐と併用されるが、3年目の1970年には自己最多の7本塁打を放つ。松岡と激しいポジション争いを繰り広げたが、守備範囲の広さと強肩でアピールし[1]、1972年にはレギュラーの座を獲得し[1]85試合に先発出場。二遊間の打球を氷の上を滑るような華麗なフットワークで処理する姿は、青田昇監督も「今遊撃で守備だけで銭の取れるのは米田一人ぐらいじゃないのかな」と惚れ込むほどであった[1]。
米田に加え、一塁手の松原誠、二塁手のジョン・シピン、三塁手のクリート・ボイヤーが結集した1970年代前半の大洋内野陣の守備は鉄壁と言われた[1]。一方で毎年打率2割前後と打撃面では目立った成績を挙げられなかったものの、守備が一流であったことから『自衛隊』の愛称で呼ばれた[1]。
選手として最も脂が乗り切った1972年と1973年には2年続けて自己最多の113試合に出場するが、1974年に打力も兼ね備えた山下大輔が入団すると、次第に出場機会が減っていった[1]。
1975年には早生まれの学年である辻恭彦が加入し、辻や江尻亮・伊藤勲・松岡らと共に自分達のことを「5人衆」と言っていたが、辻は米田について「股関節が柔らかくて、捕った姿勢で動ける。派手じゃないけど、玄人が見ると『おや、これは』と思う選手でした。」と回想している[2]。
1978年に322守備機会連続無失策の日本記録を樹立した山下は、入団時に米田を手本に精進を重ね、球界屈指の遊撃手になったことから、「僕の場合、米田さんの存在が大きかった」と回想している[1]。
その後は広い守備範囲、抜群の強肩のほか、得意の流し打ちで繋ぎ役に徹したが、1979年限りで現役を引退。
引退後は大洋→横浜で二軍守備コーチ(1980年 - 1982年, 1984年)、二軍守備・走塁コーチ(1983年, 1985年 - 1989年)、一軍守備・走塁コーチ(1990年 - 1992年)、二軍監督(1993年 - 1996年)、フロント(1997年 - 2000年)を歴任。
コーチ時代には高橋雅裕に守備の基本や技術を教え[3]、二軍監督時代の1995年にはやくみつるの4コマ漫画「やくやくスポーツランド」において、米田をドラマ「古畑任三郎」に見立てたパロディが描かれた。
フロント時代から横浜市青葉区の少年野球チーム「青葉緑東リトルシニア」でコーチを務め、高井雄平を指導[4]。
退団後はシニアの指導に専念し、現役時代のチームメイトでコーチとしても同僚であった辻と共に少年野球教室をやったこともあった[2]。
2005年2月からはSOLA沖縄専門学校監督[5]、2008年から2010年には東北楽天ゴールデンイーグルス二軍育成コーチ(野手担当)を務め、現在は「青葉緑東リトルシニア」コーチに復帰[6] [7]。